J.G.バラード『楽園への疾走』

 以下、漫然とした所感を箇条書き。


 絶滅の危ぶまれるアホウドリたちをフランスの核実験の脅威から救うために、過激で魅力的な女性環境保護運動家に率いられた一団が問題のサン・エスプリ島へと向けて出征する物語の序盤。その活動が奏功し、一行の占拠地がアホウドリを象徴にいただく絶滅危惧種たちの自然保護区、箱舟になぞらえられるべき「楽園」へと様変わりしていくなか、しかし同時に、指導者ドクター・バーバラの(大義のための殺人も厭わない)ファナティックな面貌がしだいに前景化していき、島が、アホウドリ絶滅危惧種たちの「楽園」などではなく、むしろ、男たちによって植民地化され簒奪されてきたこの世界と歴史を奪い返すための「女たち」のための「残酷で寛大な」実験場としてドクター・バーバラによってあらしめられたという事実が明らかとなる物語中盤から後半にかけての展開。
 しだいにアマゾネス化していくような「女たち」の様変わり(指導者への転移過程)と対照的に、主人公である頑健な若者ニールの、受動的で献身的でひたすら穏健な資質の開化が目を引く。
 ドクター・バーバラの楽園創設の過程は、同時に、男たちにとってのゆるやかな「回教徒化」(?)への傾斜をもたらすものにも見える。
 物語の中盤以降には、搾取と間引きの対象とされ、家畜化にも似た(ドクター・バーバラいわく、「怠惰な」)男たちにとってのこの収容所めいた生活の、「女たち」のコミュニティから分断され排除された点景が描写される。タロイモの畑で作業もせずあてどなくうろついたり、遺棄された島の滑走路でやってくるあてのない飛行機を待つ無線管制官のふりをしてみたり、無意味な植物標本を充実させながらひがな一日研究室に引きこもったり、あるいは、薬で朦朧となったおぼつかない足取りで浜辺に廃棄された缶詰の食糧を探しあぐね、途方に暮れたり。
 労働からも見放されてしまった男たちの寄る辺のない長い余暇の、「女たち」の緊密で謹直な日程の余白に無様に広がる、この無為な時間に、ちょっとだけ魅力を感じてしまう。『コンクリート・アイランド』の、あの高速道路に囲まれた陥没した三角地帯に流れていた時間にもよく似た徒労の時間が、この小説の島の中にも確かに流れ込んでいるのではないか?


 ……なんとなく安部公房の『砂の女』を思い出したのは、さらに根拠のないはなし(……たとえば、『砂の女』の蟻地獄めいた砂丘の底の家の秘密が、いわば労働と家庭の秘儀といったものの神話的起源(!?)を秘かに告知していたのだとするならば、バラードのこの小説の裏面には、そのようなファミリーロマンからも放逐されざるをえない「ジャンク」化への転落の兆しがうっすらと貼りついている。ような気がする)。


 あと、『女たちのやさしさ』はやっぱり読んでみた方がいいのではないかと思った。