ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』

ダロウェイ夫人 (角川文庫)

ダロウェイ夫人 (角川文庫)

 『ボヴァリー夫人』から夫人繋がりで手に取ってみた(まあ、ぜんぜん関係なかったけど。むしろ、デュラスと平行して読んだほうがいいみたい)。ヴァージニア・ウルフは初めて読んだけどこの小説はかなり読みづらかった(とくに長いわけでもない分量なんだけど、読み終えるのに4、5日もかかった)。単純に、物語としての筋がほとんど見当たらない(あらすじを語ることはかんたんに出来るけど、すると文庫で300頁のこの小説のほぼすべてが手から零れ落ちていってしまう。という意味で、あらすじを語ることはやっぱり出来ない)。蜘蛛の巣みたいに張り巡らせた説話の網を順繰りにたぐりよせるようにして登場人物たちを焦点化していく作家の手並みには素直に感心する。

 「描写は作品内部の時間を止める」とは渡部直己の至言だけど、この小説の作中人物たちが一人称主観の心内語を語り始める時、原理的には無際限に語り得るそのモノローグの無時間的な滞留を破って、時間の中での運動を再び彼/彼女らの身体に取り戻すことを可能にしているのは、さまざまな事物に対する知覚にあるのではないか、と思った。クラリッサ・ダロウェイなりピーターなりが追憶やら思惟やらに沈潜する。すると時間と身体はそこから奪われて、抽象的なモノローグの無時間が説話の場に広がる。そこで彼/彼女は、目に入ってきたありふれた建物だとか立ち木だとか知り合いの人物に出会い、モノローグ以前に開始されてはいたものの、その無時間的な抽象性の場では停止されてしまっていた個々の具体的な行動をようやく取り戻す。取り戻すと言うより、その行動がモノローグの場の背後を貫いて時間の中で運行されていたことが、事後的にはじめて確認される。小説技法の上で「意識の流れ」というものが正確にどういう事態を指すのかは不勉強でまったく理解していないんだけど、上述した意味で、それはとても際どい、鋭く危うげなものであるのではないか?(外部の事物とのこの恩寵めいた出会いの経験がなかった場合、意識は流れるというよりもとめどもなく拡散していってしまうだけなのでないだろうか。たとえばセプティマスの狂気の場合は?)。
 「恩寵めいた出会い」とはこの場合まさに字義どおりに受けとめられるべきものである筈で、内省に取り憑かれている人物たちの抽象的な説話の場に、(例は無数に拾えるけれど、たとえば)あの「バラの花束」やら「交差点」やら「ビッグベンの時鐘」の響き等々が経験として到来する必然性などは、たぶんどこにもないだろう。その意味で、そこでは人が事物に出会うのではなくて、事物によって人が思い出されている、というふうに言ってしまってもいいかもしれない。経験とはいつだって外部の経験である筈なのだから、事物が主体を知覚するというヴァージニア・ウルフの説話の教えは常識的な感覚に対して転倒しているのではなくて、正常な生の営みの運行を可能にする条件を証するものですらある筈だろう。
 そこでたとえば、精神医学者たちのごり押しする「人間性」とやらに強く抵抗しつつ、二階の窓から「これでも食らえ!」と叫んで階下の鉄柵との性急な出会いを求めて敢行されたセプティマス・ウォレン・スミスという精神錯乱者のあの投身自殺は、生を求めるあまりの狂気の誤作動として読むことも出来るかもしれない。
 あるいはまた、(前景化はされていなくても少なくとも、ひとつのものとしては数えうるだろう)生きることと狂気との密接に絡まりあったこの作品のテーマは、作中人物たちが二本の足を使って歩く姿として代表的に形象化することの出来るもろもろの細部の主題群――「ビッグベン」の二本の針やピーター・ウォルシュが肌身離さず持ち歩く折り畳み式の「ポケットナイフ」、裁縫や繕いものをする女たちの手にする鋏のたぐいといった、類似の形態をもつ事物たち――へと分身し、撒種されて、生と出会いの経験の領域を形づくる一方で、他方これと対照的に、公園や道端でつっ立ち、あるいはベンチや部屋のソファに腰掛け、また横たわる、セプティマスの徹底して歩行を奪われた姿を、狂気の、座礁に乗り上げた生の停滞の形象として、二つながら繋ぎとめていると読むことも出来るかもしれない。最後に作品末尾の文章をちょっと引用。

「リチャードはよくなったわ。あなたの言うとおりね」とサリーが言った。「わたし行って、話すわ。さようならをするわ。頭なんかつまんないものよ」とロセッター夫人は立ちあがりながら言った、「心にくらべたら」
 「僕も行きます」とピーターは言ったが、しばらくそのまま腰かけていた。この恐怖はなんだ? と彼は心に思った。ただならぬ興奮でおれの全身をみたすものは、何ものだ?
 クラリッサだ、と彼は言った。
 なぜなら、クラリッサがそこにいた。

 この文章には、立ち上がること(歩行を開始すること)、それをうながす女が男の目の前に現われて同時にモノローグを終わらせること、そしてその出会いが男に生の戦慄を呼び覚ましたことが凝縮されているように思う(手前味噌なはなしだけど)。