クロード・シモン『歴史』

歴史

歴史

 のっけから長めの引用――

(…)まるでベッドとシーツと彼らの肉体が一様に同じひとつの生気のない物質でできているかのようでありなかば裸でむきだしというよりむしろすべてを奪われた感じでいわば双頭の孤独のなかにおり、外見はまだまったく傷つきもそこなわれもしていないようなのに実はものすごい速度で分解しはじめておりまるで大理石にも似たその灰色のみがきあげられた表面の下で目に見えないしかし貪欲なうようよとうごめくものが自分たちの仕事に熱中しているかのようでありしたがって徐々に彼らはむなしい外皮を残すだけになりますます薄っぺらなものになっていく華奢な殼だけになり、ついにはどこかがあまりにも薄くなりすぎて破れてしまいぼろぼろになり虫に食われた木か中空の石膏のようにかすかな音をたててくずれてしまうにちがいない――(…)
『歴史』(277頁)

 あるいはまた、道端に放置された死馬のこんな描写――

青光りする大きな黒いはえどもがそのまわり、つまり傷口というよりはむしろ穴、噴火口のようなものの縁に群がり、その縁の傷のはいった皮もボール紙みたいにそり返りはじめていて、手脚がかけたり割れたりしうつろにぽっかり口をあけた内側をのぞかせている子供の玩具を思わせ、もともとそれはなかに空虚しか収めていない形骸にすぎなかったとでもいうように、まるではえやうじむしどもがすでに彼らの仕事を終え、つまり骨も皮もふくめて、食べられるものをすべて食べつくしてしまったので、あとにはただ(…)
『フランドルへの道』(96頁)

 事物の内部でこやみなく進行する崩壊の過程、その崩壊の独自の感触として掴まれたおびただしい数の小さな虫のような群れの蠢動、その崩壊のあとに残される物の形骸。『歴史』は『フランドルへの道』の7年後に書かれた作品みたいだけど、崩壊という事態を描く作家の筆致は両者に同型の光景を招き寄せているように思う(しかしまた、引用したこの二つの文章には明確に違いがある。『歴史』におけるそれが、話者「ぼく」のすでに別れてしまった「彼女」(ナニーヌ)とのかつての同床の記憶にもとづく実存的(!?)な内部から掴まれた崩壊の感覚を晒すものだとすれば、『フランドルへの道』の(記憶が確かならば)三度(だっけ?)時間と眺められるアングルを微妙に変移させつつ繰り返される馬の死骸のその描写のくだりは、「崩壊」といういまこのエントリで手前勝手に抽象されている主題を抜きにして作品単体の中での説話的配置を素直に見れば、むしろ、『歴史』におけるあのオランダ人画家とモデルの女が写された一枚の写真を巡る「ぼく」のジクザグな記述の試み、あの「エクリチュール多重露光」的な時間とイメージ処理の質感をこそ読み手に伝えようとしているだろう)。
 この前『フランドルへの道』を読んでいたときにもちょっと不審に思っていたんだけど、クロード・シモンという作家は「崩壊」を語りつつも、しかしではいったいこのことばの能産性、あまりにも多産なこのありさまはなんなんだ、とずっと疑問に感じていた。ひとつのイメージが別のイメージを呼び、諸感覚は輻輳し、あるいは拡散し、飛び火し、語は語でそれらイメージや感覚や記憶を横ざまに糾合し縫い合わせていく、というその実践のさまはよくわかる。しかしそのことと主題とのあいだ(書きざまとその内容)に不可解な隔たりがあるとも感じていた。同時に、その書くことの能産性と崩壊の主題は切っても切れないものとして作家に掴まれているだろうという感じもある。まあ単なるヤマ勘というか直感として根拠の薄弱なまま言い切ってしまえば、たぶん、「はえやうじむし」みたいな崩壊や解体をもたらす無数の小さなものたちのうごめきとは、小説を形づくる語であり、語の連なりからなる文であり、この際さらにDQNなことを言ってしまえば、わたしたちすべてを泥の中からこの世界に立ち上がらせることにもなるあのおびただしい精虫や卵子の群れの胎動とまったく同じものとして作家に直観されているのではないか?

(…)女はレース布で包んだ真白な肌の神秘な上体を前に傾けているのだがその胸はひょっとしたらもうぼくをその真暗な聖櫃のなかに宿していたのかもしれない 背中をまるめてうずくまり馬鹿でかい目を二つもち頭は蚕のようで口には歯がなく額はまだ虫みたいな軟骨状でようするにぬるぬるするおたまじゃくしのようなもの、それがぼくだったのだろうか?
『歴史』310頁

 決定的な崩壊のあとにまったく新たな何かがそれを契機に生起する(『AKIRA』的な?通俗弁証法的な?)のではないし、あるいは崩壊のあとの人っ子一人いなくなった瓦礫のなかにある日一羽の小鳥が「プーティーウィッ?」とおしゃべりを開始するのでもないし(ヴォネガット!)、ましてや核戦争による全面崩壊に怯えながら神経症的な不定愁訴(ないし柔らかな恫喝)のことばが繰り述べられるのでもなく(安部公房?大江!)、そこでクロード・シモンの小説のことばたちは崩壊と胎動とが完璧に同じもの、裏腹な関係であるとか交互に条件づけあい継起するとかいう留保の論理抜きに、それがまったく同じものの別様のアフェクションであることを示そうとしているように思う。