ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』

灯台へ (岩波文庫)

灯台へ (岩波文庫)

 この小説はごく単純に家族小説のようなものとして受けとめてよいものだろうか?(読み終えてみてもうまく判断できない)。
 ラムジー夫妻という一組の父母の綾なすエディプス的な(モロにヴィクトリア朝時代的な)家政の権力を巡るドラマを中心に、彼らの子どもたちが父と母の形づくった(広い意味での)「約束」みたいなものをいかに果たすことになるのか――、という理解で正しいのだろうか? ……その場合「約束」というのは、狭い意味で明示的には、それに関する母親ラムジー夫人の六歳になる息子ジェイムズへの根拠のない(しかし我が子への愛情と慈しみには溢れた)言質としてある作品冒頭のセリフ(「そう、もちろんよ、もし明日が晴れだったらばね」)によって託されている、翌日の灯台へのピクニックの予定として書きつけられているものだけれど、他方これに比べていくぶんかは見えづらいいまひとつの「約束」として、父親ラムジー氏が、母親のもたらしたその優しげなことばを言下に否定する現実的で厳格な発言(「晴れにはならんだろう」)として象徴的に表現されている、「去勢」の効果の実現としても読み取ることができるのだろう。ラムジー夫妻とその子どもたち――人生の日程が夫妻の影響で大きく左右されるという意味で、そこに幾人かの夫妻の若い友人たちを含めて――が、一篇を通じて交互に交換しあう認識や追憶や感情の形づくるモノローグたちのリレーがその「約束」によって結実しようとするところを描いているようにも思う。
 たとえばこの前読んだ『ダロウェイ夫人』には「歩くことと生きることとの合流」みたいな主題を読むことができた気がしたんだけれど、この作品における去勢の主題は、その歩行を可能にする身体的な部位として人物たちの足(的なもの)への注視を促しているような気もする(それもこれも、積み重ねた仮定が正しかったらのはなしだけど)。
 作品第一部で描かれる、母親の傍らに寄り添う幼い息子の足を木の枝でくすぐるという父親のなにげない所作は、それから十年後の一家の姿を描く第三部の彼(ジェイムズ)によって、それが神話的な怪鳥の「冷たく堅いかぎ爪くちばしを使って何度も何度も」(357頁)繰り返される襲撃として観念されていたさまが鋭い殺意をともなって想い起こされることになるし、あるいはまた見やすいところで、誰かれかまわず無垢な足を轢き潰してまわる荷馬車の車輪というジェイムズの抱く隠蔽記憶めいた幻想(359頁)は、そこに去勢脅迫者としての父親の姿を明確に認めることになるだろう。「立派な靴の宿る聖なる島」(296頁)と揶揄もされ、しきりに「さっさと歩くんだ」(314頁)などと子どもらを号令するラムジー氏の姿からはやはり、足に向かって威嚇する去勢者という像がイメージされるように思う。一方でまた母親ラムジー夫人は、『ダロウェイ夫人』におけるあの「はさみ」だとか時計の「長短針」のような、二つで一組のシルエットを形づくる(いわば)生の護符に照応するものとして、ここでは二本の「編み棒」を握りつづけながら「靴下」を編む姿を読み手のイメージの中に強く刻み込むことになる。
 そのような文脈で、ラムジー家において契られた「約束」は、高く張られ風で大きく膨らんだ船の帆の下で充分見事に操舵し「灯台へ」の航海を成功させたジェイムズによって、確かにそこで果たされた、と見ることもできるのだろう。船の帆であり、灯台であり、あるいは素人画家リリー・ブリスコウのふるった絵筆によって「キャンバスのちょうど真ん中に」(406頁)引かれた一本の線でもあり、おそらく誰かの足でもあるものとは、端的に、ファルスと呼ばれて然るべきものではなかったか?
 しかしそこがまたこの小説の評価の微妙なところで、以上のこの妄想じみた見方が正しかったならば、これは作品としてちょっと厳しいと思う(……このような退屈な読み方が決定的に間違ったものであって欲しいと思う。第二部で無人の家屋の朽ちていくさまに費やされた描写の素晴らしさとかに接して、心底そう願う)。