マルグリット・デュラス『愛』

愛 (河出文庫)

愛 (河出文庫)

 この作品の舞台となっている場所(S.タラ)やそこに生きる人物たちは『ロル・V・シュタインの歓喜』で描かれた世界と地続きではあるけれど、であるがゆえにいっそう、それら二つの作品のあいだに横たわる差異が読み手の意識に強く印象づけられる。このごく短い作品に登場するおもな人物はたったの4人だけで、名前も持たないそれら人物たちを『ロル・V・シュタインの歓喜』の物語の中での固有名と結ぶつけること(同定すること)はべつに難しいことじゃない(訳者が解説で親切に示してもいるけれど)。両作に接した読み手の意識にとっては、そのような作品世界の連続性ということはあまり問題にはならないと思う。端的に、ここではあの、かつてロル・V・シュタインだったはずの女が決定的な(後戻り不可能な)解体の過程に晒されてしまっていて、男たちにも読み手にとってももはや手の届かない(非)場所へと沈み込んでいってしまっている。『ロル・V・シュタインの歓喜』においてはまがりなりにも作動していたとみなすことのできる三角関係の図式(転移だとか欲望の構成する構図みたいなもの)は、ここではいかなる意味においてもまったく働くことがない。ロルにおいては、そのような欲望の構成物はあらかじめ流産したものとしてよりほか、もはや現れようがないだろう(作品の中で何度か響く子供の呻き声だとか、女の「子供を待っている」という発言は、女が何者かの子を身籠っているということを暗示しているわけではなく、女みずからが、産まれてくる以前にS.タラという歴史の停止してしまっているような土地そのものにその身を奪われる、いわば不断に死産する胎児としてあるさまをこそ明らかにしているように思う。その意味で、この作品のスカスカで、枯渇しきって、しかし同時にこれ以上ないくらいに濃密な言葉の連なりの数々は、死児のエクリチュールとでも呼べるかもしれない)。あるいはひょっとしたら、かつて『ロル・V・シュタインの歓喜』においてロルと呼ばれていたあの女は、この『愛』という作品においてはもはや、それを狂気と呼ぶのもはばかられるような、S.タラの浜辺の砂だとかそこに吹く風、夜の大気だとか満ち干きする潮の流れみたいな、主体の残骸とでも呼ばれるしかないようなほとんどモノと区別のつかない位相にまでその存在を切り詰められようとしているのかもしれない(言い過ぎかもしれない)。

 女が『ロル・V・シュタインの歓喜』とのあいだに絶対的な(還元不可能な)差異としてある生(/死)の過程を刻みつけていたとするならば、舞台となるS.タラという名の土地もまた前作『ロル・V』とはまったく異なる姿を浮上させており、おそらくこの作品におけるデュラスの試みの大きな力点として、このS.タラの風景を更新させる心積もりがあったに違いないと思われる。海があり砂浜があって、そこに吹く風が男たちと女をなぶるように流れてゆき、背後には密集した家々が廃墟の数々のようにひかえ絶えず腐蝕の音を軋ませており、そこで女はあてどなく徘徊しつつ、不意に場所を問わず眠りこけ、そして静かに錯乱していき、男はいかなる動機もかいたまま夜を日に継いで火災の炎を放ってまわり、黒い煙があちこちで立ちのぼる中、サイレンの音はいたるところで響き渡る。夜が明けて朝の光が溢れ、九月の昼の光線は眠る女のまぶたを容赦なく打ち、やがてそれもしだいに弱まって、夕方の柔らかい光へ、再び夜の闇へとすべては沈んでいく。しかしそこで、S.タラの自然の時間のサイクルは人間のもろもろの営みを励ましたり妨げたりすることはほとんどない。それはそれそのものとして、人間の営為とはまったく関係を持たずに流れていく。S.タラの歴史の時間はそこでは完全に腐蝕し停止してしまっているように見える。
 
 『愛』という作品の中で何が起こっているのか、まったく理解できないけれど、まあそれはとても怖ろしいことだとは言える。繰り返す。怖ろしい。