クロード・シモン『ファルサロスの戦い』

ファルサロスの戦い

ファルサロスの戦い

 三つの章からなるこの小説の第一章の部分は「I 大股で走る不動のアキレス」という標題がつけられており、エピグラフとしてヴァレリーから借りてこられた断章が掲げられている。ゼノンの有名なパラドックスのひとつに託されて作家にイメージされているこの「大股で走る不動のアキレス」のヴィジョンは、そこで取り扱われることになる運動や記憶、想像力といった諸モチーフを差し合わせながら書かれていく作品のことばたちを、あらためて書くことの運動それじたいへと送り返そうとする作家の営みの絵解きとして読み手に読まれることになる(クロード・シモンの小説を読むのはこれで三作目になるけど、読み手に対するこの手の親切な――親切というより、ことによったらじゃっかん「擦り寄っている」という印象すら与えかねない自作への明快な解題の振る舞いにははじめて接した気がする)。ゼノンのパラドックスというものがどういうものなのか詳しくはよく知らないけれど、ちょっとウィキって覗いてみた感じで(このあたり)、運動やできごとといった本来生きられてある(べき)ものとして経験される生の世界が、そこでは無限回にも繰り返される観念の内部での抽象的な手続きの背進的更新によってついにカチンコチンに凍りつく、そのような事態の可能性というふうに、ここでは大雑把に了解しておく。放たれた矢は運動を奪われて空中で静止し、アキレスは去っていく亀を追いかけて永久にそこに到達できない。哲学的にも数学的にもいろいろと解決の方途のさぐられたらしいこのパラドックス*1の結論を、その世界像を、クロード・シモンは作品のことばを書くという現に「生きられてある」運動の水準において、その書記行為の前提として受け入れるだろう。この期に及んで今更こんな文章であらためて念押しするまでもなく、原則として作家が作品のことばを書くこととは、それがなんらか生の実質を充たす(作品という「子」の)誕生にも似た祝着の経験としてあるのではなく、語とイメージの緊密な連関の中で、そこで選ばれることのなかったことばたちを刻々と殺害していく血なまぐさい排除の営みとして、その傍らにみずからの手で死産させた遺骸の山をうずたかく積み上げていく営みとしてあるだろう。同様に、もろもろの語がある運動体のイメージの描写に奉仕するとき(運動の似姿を描こうとするとき)、ことばはじしんがそのために費やしたイメージを裏切っていよいよ運動物から運動を奪い去り(鳩の飛翔から飛翔を奪い去り、あるいは矢は空中で静止し)、あとにはなにか運動によく似たもの、まがい物でできたガラクタの山を紙の上に積み上げることの徒労が残ることになるだろう。*2 ゼノンの預言はこのようにして、クロード・シモンの『ファルサロスの戦い』という作品の上でも確かに実現されている。太陽の黄色い光の中によぎる一羽の鳩の大弓のような黒い影は一回限りだったはずのその飛翔を幾度も繰り返すことになるし、裸体の間男は弓矢にも剣にも投槍にも似たその勃起した一物を股間にそびえ立たせながら、描かれた、あるいはかたどられたローマ兵の姿にも似て、同衾した女とともに寝床の上で石のように固まりかけつつあり、敗走する騎馬兵のギャロップする姿もまたファルサロスの戦いから二千年ごしの不動の疾駆の姿勢を強いられて永久に続く潰走の過程に凍りつく。そこではあらゆる時間と運動の過程が、イメージを繋ぎとめる語の抽象力によって空間の中ではりつけになり、微分され、縮滅され、宙に吊られることになる。しかしまたそのような場所にしか書くことを自覚的に引き受ける者としての作家の居場所はないと、クロード・シモンは考えているのではないか。潰走につぐ潰走、運動の縮滅につぐ縮滅によって身じろぎひとつ許されない静止した空間の中で、しかしファルサロスの丘を無数に飛び交う矢の一本いっぽんへと視線をめぐらせ、次から次へと跳躍し、あらゆる事物を凍りつかせながら、作家はことばを崩壊へと差し向けていこうとするのではなかったか。クロード・シモンとはおそらくそのような人なのではないだろうか?(それを凄いと思うか、つまらないと思うかは、また別の問題として)。

*1:それをたとえば、ゼノン(=超自我)から発せられた禁止を命ずる威嚇の声を内面化した神経症者アキレスの、その発症の過程の論理学的サンプルのようなものとしても解釈することができるかもしれない。無茶かもしれない。

*2:時間処理の巧みな作家として、最近ちょぼちょぼ読んでいるヴァージニア・ウルフを思い出す。簡略して図式的に描けば、『ダロウェイ夫人』の説話においては事態はおおむねこんな具合に進む。『彼女は家を出て葉書を出しにポストへむかった→(心内語/モノローグ)→そこで彼女は目の前にポストを見出した→(再び心内語)→……』ヴァージニア・ウルフの最期が自殺だったという事実を知らなかったとしても、精神錯乱に陥った一人物の投身自殺がトピックとして扱われるこの小説の上記の説話に危機的な徴候が兆していることは即座に察知される。この説話の流れの中で、たとえば心内語によるモノローグにあたる箇所が事物(ポスト)に出くわすことなく延々と続いた場合の空虚の混入、あるいは、ポストをひとたび見出した人物が、しかしモノローグを介して再び、何度でも繰り返してポストをしか見出せない場合の不純物としての事物の出没を考えてみればよいと思う。「意識の流れ」の実践例として穏当に読まれているこの叙法の裏面に、怪物じみた経験の出来する可能性がぴったりと貼りついているさまが読み取れるのではないか? 事物とはクロード・シモンのこの作品において「アキレス」に対する「亀」にあたるものと見てよいし、上記「不純物としての事物の出没」の様相は『ファルサロスの戦い』で欠伸を催すほど反復される対物描写の、原型的な最小単位を構成しているものと見ることも可能かもしれない(思いつき)。