丹生谷貴志『ドゥルーズ・映画・フーコー』

ドゥルーズ・映画・フーコー

ドゥルーズ・映画・フーコー

 増補として書き下ろされている短いイーストウッド論(「報いなき受苦の祝祭」)で説かれている文章の内容は、以前の版にも収められていた同じイーストウッドに関するいくつかの論考での主張をあらためて簡潔に再説しなおしているだけのようにも読める。十年前の旧版刊行時にやはり書き下ろしとして収録された「崩壊に曝された顔」という表題をもつ比較的分量のあるイーストウッド論にも展開されていた視点――イーストウッド作品における「老い」の崩壊過程の、イーストウッド自身への眼差し返しという事態への着眼が、新版のそこでは、タイトルに読まれるとおり再度「受苦」という主題のもとに投げ返され、この間『許されざる者』以降撮られた幾本かの作品へと視線を差し向けながら駆け足気味に要点の確認がなされていく。今回の新版増補であらためて小さく主題化された受苦の問題が、フーコードゥルーズといった哲学者たちの仕事を念頭において丹生谷貴志がこの本で語る崩壊や不毛、疲労と寒気、老い、映画的分身といった旧版以来の問題群と微妙に異なるところがあるとすれば、「受苦」という概念がそもそもつねに暗黙に前提しているように、そこには受苦者の憎悪に発するその苦痛をもたらした者への「報い」という問題が拭いがたくまとわりついているという点にあるだろう(端的にそれを、9.11以降の現代的課題といってよいだろう)。主体にとって消費不可能(ということは同時に当然、交換不可能)である老いにおける崩壊過程や中間領域に拡がる不毛の経験といった哲学的課題に終始粘り強くこだわり続けているこの本の諸論考に、「受苦とそれへの返報」という交換可能性からなる概念を導入することは、それがその交換の図式にあらかじめ無効を宣するために仮に呼び込まれていることが明らかなのだとしても(「報いなき受苦」)、そこに丹生谷貴志という書き手のごくごく微細な変質の兆しのようなものを疑わさずにはおかないような気がする。むろん、崩壊にしろ不毛にしろ(あるいはアルトー的な「絶対的な分身」と言ってもよいし、フーコー的「自己」と言ってもよいし、イーストウッド的な「寒気と疲労」と言ってもいいけど)、丹生谷貴志が身をすり寄せるようにして引き出してくる厚みのない概念はいつでも両側を崖に挟まれたような隘路の行程の中でようやくかろうじて現われてくるクリティカルなものであったはずだから危機はつねに踵を接して書き手とともにあったことは確かなのだけれど、ここにいたって「報いなき受苦の祝祭」を呟かねばならないことの倫理的な暗色の、うっすらとした翳りが、どこかしら否定しがたくへばりついていることに軽い驚き(と言って大袈裟ならば、まあ小さな違和感のようなもの)を覚えてしまったことも確かなのだった(まあ自分、どんだけノウテンキな世界の住人なんだよってことだとは思うけど)。丹生谷的語彙における崩壊だとか不毛だとかは、それが「受苦と報い」の連鎖を構成しうるような相互に外在的な交換関係(「外部と内部」、「彼岸と此岸」、「不毛とその馴致」、「崩壊と秩序化」みたいな対立図式)にあるように見えるときですら、その偽りの相互依存の関係の裏面で、「真の崩壊」、「真の不毛」、「真の荒野」の位相として、今ここに現にそれが現れて作動しつつある現動性、内在性が何度でも執拗に確認されることになるわけだから、「報いなき受苦の祝祭」の消費不可能性をあらためて確認する丹生谷貴志のことばはここでも何らブレを示しているわけではない。しかしまた、老いにおける崩壊や中間領域の迫り上がりが記述の連なりの過程で徐々にそれじたいの内部からの発光によって暗闇の中に輝きを放ち始めているとするならば(現にそのように読んできたんだけど)、書き手が十年の歳月を経て同じ対象を選んであらためて新たに主題化するこの「報いなき受苦」の概念にはアイロニカルな表情がいつのまにか被ってしまった蜘蛛の巣のように、うっすらと、払いがたくまとわりついてしまっているように思えてしまう。その意味でここにおける「受苦」の概念は二重に苦しげなものに思われ、言論人の応答責任といった姿勢(?)に特有の息苦しさ、正義と倫理を語らなければならない覚悟をした者に不可避の暗色、抜けの悪さから充分に逃れえていない(丹生谷貴志は端から「逃れよう」とはしていないのかもしれないけど、「死者の汚辱」といった倫理的痛みの場所からすら可能的に望遠されていた新たな場所への移行や、自殺を語るフーコーからさえ引き出しえたかもしれない「とても単純な喜び」の可能性の核心を、「報いなき受苦」のどことなくシニカルな視点は、内在的にあらかじめ取り零してしまっているのではないだろうか?)。……迂闊なことは言えないけど、丹生谷貴志は難しい場所へと到ろうとしているんだろうと思う。