ロブ=グリエ『反復』

反復

反復

 投げっぱなしで駆け足の感想(というか、いつもながらの放言)。
 この小説の主人公は左利きだったという憶測を立ててみる。で、彼の双子の片割れにあたる男ヴァルター・フォン・ブリュッケは右利きだったと想定してみる。根拠はと問われたならば、まあいっちょ作品を読んでみてくださいとだけ答えておく(……たとえば主人公の上着のポケットからは折りにふれ拳銃だとか女物の靴だとかパスポートだとかいった物品が四次元ポケットさながらに湧き出るように現れるんだけど、それがいずれの場合も例外なく左側からであるという事実が前者にかんしてもっとも説得力のありそうな一点。かたやヴァルター・フォン・ブリュッケの吸う葉巻煙草の持ち手や女の股間を指でまさぐるその手が、これは明確に右手として記述されているという事実がもう一点。双方いずれの場合も、それが利き手と必ずしも一致するわけじゃないことは確かだとしても、まあべつだんそのような憶測をけっして許さないというわけでもないだろう)。つまり、だとすると、主人公である男と彼の闘争者である双子の兄とは、たんに類似を介した分身(相同性)の関係にあるだけではなくて鏡像的な(左右)非対称の関係においてそこに差異の罅割れをこそ浮き彫りにする。作中思わぬ拍子に、しかし印象的な場面でいくたびも響くことになる、『反復』という作品におけるあのガラスの割れる音とは、鏡像が不可避的にその鏡の対称性(写像と実像との想像的な同一性)を毀たれる契機を告げるものとして現れるようにも思う(その罅裂を時間性にそって展開するとキルケゴールのいわゆる「反復」とよく似た事態が現れるのだろう)。ところでこの小説は誤解のしようのないくらいに余りに露骨にオイディプスの物語が上に(/の下に)重ね書きされている(父殺しと母との近親相姦という物語論上の形式的な事態に加えて、クライン派の分析医は出てくるし、双子の兄弟どうしでエディプス・コンプレックスのなすり合い、みたいなたいへんなことになっててひじょうに面白い)。しかし読み進めていくと、最終的にそのオイディプスの物語は宙ぶらりんで落着どころのないまま霧散していってしまう。父ダニエル・フォン・ブリュッケを銃撃した犯人はついに明かされぬままになるし、息子が母親を寝取るとはいってもそこでの母とはあくまで戸籍の上でようやくそれと同定されるだけの形式的なカップリングの遊戯にすぎないものであるだろう(父の娶った年下の後妻との、その身分をしらぬままの偶発的な行きずりの性的関係などは、精神分析がその固有の力で要請するような必然的な欲望のありかたとはほとんど関係がないだろう)。双子の兄弟相互で相手の身振りに投影されるエディプス・コンプレックスとは、そこで起こった事件を物語として回収するために口寄せされた疑似餌にすぎないもので、小説がそのような通りのよい物語として滑らかに流通してしまいそうになる瞬間ごとに、作品は、読み手は、それが最初から最後まで物語ときわめてよく似た、しかし目を凝らすまでもなくその亀裂の痕跡が見逃しようのない明白さで縦横に走る、鏡面に写ったまったく別の何かであったことを執拗に警告されることになるんだろうと思う。