ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』

ダロウェイ夫人 (角川文庫)

ダロウェイ夫人 (角川文庫)

 『ボヴァリー夫人』から夫人繋がりで手に取ってみた(まあ、ぜんぜん関係なかったけど。むしろ、デュラスと平行して読んだほうがいいみたい)。ヴァージニア・ウルフは初めて読んだけどこの小説はかなり読みづらかった(とくに長いわけでもない分量なんだけど、読み終えるのに4、5日もかかった)。単純に、物語としての筋がほとんど見当たらない(あらすじを語ることはかんたんに出来るけど、すると文庫で300頁のこの小説のほぼすべてが手から零れ落ちていってしまう。という意味で、あらすじを語ることはやっぱり出来ない)。蜘蛛の巣みたいに張り巡らせた説話の網を順繰りにたぐりよせるようにして登場人物たちを焦点化していく作家の手並みには素直に感心する。

 「描写は作品内部の時間を止める」とは渡部直己の至言だけど、この小説の作中人物たちが一人称主観の心内語を語り始める時、原理的には無際限に語り得るそのモノローグの無時間的な滞留を破って、時間の中での運動を再び彼/彼女らの身体に取り戻すことを可能にしているのは、さまざまな事物に対する知覚にあるのではないか、と思った。クラリッサ・ダロウェイなりピーターなりが追憶やら思惟やらに沈潜する。すると時間と身体はそこから奪われて、抽象的なモノローグの無時間が説話の場に広がる。そこで彼/彼女は、目に入ってきたありふれた建物だとか立ち木だとか知り合いの人物に出会い、モノローグ以前に開始されてはいたものの、その無時間的な抽象性の場では停止されてしまっていた個々の具体的な行動をようやく取り戻す。取り戻すと言うより、その行動がモノローグの場の背後を貫いて時間の中で運行されていたことが、事後的にはじめて確認される。小説技法の上で「意識の流れ」というものが正確にどういう事態を指すのかは不勉強でまったく理解していないんだけど、上述した意味で、それはとても際どい、鋭く危うげなものであるのではないか?(外部の事物とのこの恩寵めいた出会いの経験がなかった場合、意識は流れるというよりもとめどもなく拡散していってしまうだけなのでないだろうか。たとえばセプティマスの狂気の場合は?)。
 「恩寵めいた出会い」とはこの場合まさに字義どおりに受けとめられるべきものである筈で、内省に取り憑かれている人物たちの抽象的な説話の場に、(例は無数に拾えるけれど、たとえば)あの「バラの花束」やら「交差点」やら「ビッグベンの時鐘」の響き等々が経験として到来する必然性などは、たぶんどこにもないだろう。その意味で、そこでは人が事物に出会うのではなくて、事物によって人が思い出されている、というふうに言ってしまってもいいかもしれない。経験とはいつだって外部の経験である筈なのだから、事物が主体を知覚するというヴァージニア・ウルフの説話の教えは常識的な感覚に対して転倒しているのではなくて、正常な生の営みの運行を可能にする条件を証するものですらある筈だろう。
 そこでたとえば、精神医学者たちのごり押しする「人間性」とやらに強く抵抗しつつ、二階の窓から「これでも食らえ!」と叫んで階下の鉄柵との性急な出会いを求めて敢行されたセプティマス・ウォレン・スミスという精神錯乱者のあの投身自殺は、生を求めるあまりの狂気の誤作動として読むことも出来るかもしれない。
 あるいはまた、(前景化はされていなくても少なくとも、ひとつのものとしては数えうるだろう)生きることと狂気との密接に絡まりあったこの作品のテーマは、作中人物たちが二本の足を使って歩く姿として代表的に形象化することの出来るもろもろの細部の主題群――「ビッグベン」の二本の針やピーター・ウォルシュが肌身離さず持ち歩く折り畳み式の「ポケットナイフ」、裁縫や繕いものをする女たちの手にする鋏のたぐいといった、類似の形態をもつ事物たち――へと分身し、撒種されて、生と出会いの経験の領域を形づくる一方で、他方これと対照的に、公園や道端でつっ立ち、あるいはベンチや部屋のソファに腰掛け、また横たわる、セプティマスの徹底して歩行を奪われた姿を、狂気の、座礁に乗り上げた生の停滞の形象として、二つながら繋ぎとめていると読むことも出来るかもしれない。最後に作品末尾の文章をちょっと引用。

「リチャードはよくなったわ。あなたの言うとおりね」とサリーが言った。「わたし行って、話すわ。さようならをするわ。頭なんかつまんないものよ」とロセッター夫人は立ちあがりながら言った、「心にくらべたら」
 「僕も行きます」とピーターは言ったが、しばらくそのまま腰かけていた。この恐怖はなんだ? と彼は心に思った。ただならぬ興奮でおれの全身をみたすものは、何ものだ?
 クラリッサだ、と彼は言った。
 なぜなら、クラリッサがそこにいた。

 この文章には、立ち上がること(歩行を開始すること)、それをうながす女が男の目の前に現われて同時にモノローグを終わらせること、そしてその出会いが男に生の戦慄を呼び覚ましたことが凝縮されているように思う(手前味噌なはなしだけど)。

フローベール『ボヴァリー夫人』

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)

 大きな声じゃ言えないけどフローベールを初めて読んだ。本じたいはずいぶん前に買っておいたんだけど床の上に積ん読したまま五年以上放置してあったもの(だもんで、古本みたいに全体に黄ばんじゃって、あちこちに赤錆みたいな染みとか浮いてる始末) 。しかしこれはさすがにおもしろかった。もっと早く読むべきだった。1857年刊行の小説らしいけど、なるほど今だにあちこちで言及される理由がなんとなく飲み込めた。
 農事共進会のパートに見られる二重の「誘惑(呼び声)」の並行的な処理の鮮やかさとか、馬車の中でのレオンとエマとの情交の光景を濃厚に匂わせる黙説法の巧みさなんかには唸るしかない(風景から細々とした事物の細部、登場人物たちの心理まで、万事よろしくその描写に貪欲に飲み込んでいく作家の健啖な筆致が、しかし肝心のそこにいたっていっさい沈黙してしまい代わって通り一辺の街並の描写や御者の心情描写に終始するとき、しかしその遠回しの奥床しさこそが、読み手のイメージの中に、いまその場で隠されている光景を窃視することをいやがうえにも掻き立て、言葉とそれを読むこととのあいだの共犯関係を強烈に立ち上がらせる、みたいな)。最近読んだ小説から思い出せるところで例を拾えば、たとえばこういう技巧は『覗くひと』のロブ=グリエあたりにもちゃんと受け継がれているような気がする。ただし黙説法というものがその最大の力を発揮する場面とは結局、法とか検閲に対する描写の側からの局地戦的な抵抗として組織される場合にこそあるのかな、とも思う。そうでないかぎり(単なるマニエリスムに堕した場合)、渡部直己がかつて口が酸っぱくなるほど繰り返していたように、囲われた馬車の車室という密室(空虚な中心)を巡ってその周囲をぐるぐる優雅に旋回するだけの、イメージによる動員とか煽動の手段として誤用されるのが落ちということになるのだろう。そこでたとえば、女の股間に顔を埋めて女性器を鷲掴みにするクロード・シモン『フランドルへの道』のジョルジュのあの直截さ、ブツをまさぐる手つきのその遠慮のなさは、この文脈の中で、黙説法的な技法の弱みと裏腹の繊細さとたくらみから一定の距離を取って、小説言語によるある種の野蛮の擁護として読むことが出来るようにも思う。
 性的な事柄に関しては周到にその核心の(身体的な)描写を回避していたフローベールだけど、砒素をあおって臨終の床につくエマの死の場面ではけっこう容赦ない。あれほど美しかった女をベッドの上でのたうちまわらせ、嘔吐と錯乱のうちに醜い死への過程のもとへ長々と書き留め、あげく、エマの怖れた醜い「盲人」の歌声の響きによって最期の宗教的改心をも台無しにし、死後の横たわる寝姿も不様な崩壊の過程になかば放置する恰好だ。寝床に吐瀉物を巻き散らすことになる惨めなエマの最期の姿からは、『モデラート・カンタービレ』のデバレード夫人を襲ったあの「吐き気」の、さらに徹底して容赦のない、はるかな先取りを見て取ることも可能かもしんない(デバレードの嘔吐がブルジョワ的な領域を分断するようにして生理学的な外部から彼女の口元へと流れ出して死と狂気の方向へと女を導いていたとするならば、遺体となったエマのぽっかり開いた口元から不意に溢れ出して付き添い人の服を汚そうとする「黒い液」は、つまるところは徹頭徹尾生者の課題である「死への衝動」すらがもはやすっかり清算されてしまった、事態としての即物的な死そのものの染み跡をしか残さないだろう)。
 あと気になったところと言えば、やっぱり冒頭に現われる「私たち」という語り手の身元に関する謎だ。あれが単なる作家のうっかりミスなんだとしても、とても魅力的な染みのように見えてしまうから不思議だ。フローベール研究の世界ではどういう解釈になってるんだろう?
 しかし単純に感情移入みたいなレベルで、エマはとても魅力的だ。訳者の生島遼一が解説で紹介しているチボーデという人のフローベール論の、「シャルルの欠点は《そこにいる》ことだ」という言葉は、まあエマにこそ相応しいように思う。シャルルが《そこにいる》ことは、愛人の男たちにとっては無論のこと、妻エマにとってすらほとんど問題ではなかったろう。エマにとって《そこにいる》ことが本当に疎ましかった存在とはエマじしんにほかならなかったのではないか。エマという人はどういう境遇にあったってみずからの周囲に欠如感を産み出してしまう、存在それじたいが過剰のかたまりのような女だろう。もちろん、エマのそこがいい(薬剤師の親父とかも全篇つうじていい味だしてる)。

『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man』

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man [DVD]

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man [DVD]

 民放で夜中に放映していたころには時々見てたんだけど毎回きちんと追いかけていたわけでもなくて(ビデオがないから録画もできなくて)、総集編とはいえ今回ようやく話の大まかな流れが掴めた。DVDじたいはひとつき前に手に入っていたんだけど長い作品を見るのに必要な気力が湧かなくて放置してあった。ゴールデンウィークになって時間の余裕も出来たしいっちょ楽しんだろうとようやく見る気が起きる。昨日の0時前くらいから見始めることになって、160分もある作品だし眠くなったら中断して次の機会でもいいやくらいに思ってたんだけど、ふつうにおもしろくて眠気を覚えることもなく最後までとおしで楽しめた。思いついたまま漫然とした感想。
 この作品で取り扱われている「笑い男事件」という出来事は、「笑い男」が引き起こした事件とも解釈できるし、また、「笑い男」が追求していた事件とも解釈できるし、あるいはまた、それらひっくるめて「笑い男」を巡って起きたもろもろの事件の総体的な呼称とも解釈することができるだろう。話の流れのなかでは一応、笑い男という特定の犯罪者主体の起こした(単なる金目当ての企業テロ)事件という当初の見方から、笑い男とは実はそのような個別の具体性をそなえた実体として存在しているのではなくて状況の全体(政界人の暗殺未遂からポップアイコン化まで含めた)を指す出来事の総称をいうのが相応しいというようにその意味が書き換えられていき、しかし最後に、ふたたび「消滅する媒介者」としてのエージェント笑い男その人の目論んでいた事件の隠された本当の意図が明らかにされ、行為の主体としての笑い男が浮かび上がるという、出来事に対する誤認と訂正が繰り返される弁証法的な展開がしめされている。だから、作品のなかで登場人物によって口にされる「オリジナルなきコピーの氾濫」とはこの場合、そのようなシミュラークル状況がそこに生きる者たちの世界を隈無く染め上げているさまをひとまず真卒に認めたうえでなお、そのような足場もない浮動する状況において真正なる行為を主体としての立場からなすことが急務の課題であることが告げられるための叩き台としてあるのだろう(『厄介なる主体』のジジェクなら、それを「真正なるポリティクス的行為」と呼ぶかもしれない)。そもそもそこでは、当初の認識では事件のオリジナルとみなされていた笑い男その人の初発の動機さえネットのどこかで拾った差出人の名前も知れないメールのなかの文言にうながされたいっこの模倣行為であったことが明らかにされることになるのだから、事態は徹底されている。
 物語の中盤で、「笑い男」に勝手に同調した人々が警察庁長官みたいな人物に天誅を下すために手に手にエモノをもってぞくぞくと集まってくる場面があったけど、見かけこそ類似しているものの「真正なるポリティクス的行為」とはまったく無縁なそのヒステリー症的な行動もまた、「オリジナルなきコピーの氾濫」という状況に精確に対応した誤作動と見られるべきことを、無論、制作者たちは求めているのだろう。そこでは「大文字の他者」の崩壊が享楽に耽る超自我を呼び出して、「笑い男」という浮動するシニフィアンの群れの、現実なるものへの邁進を引き起こしている、みたいなジジェクの図式がしっくりあてはまる(物語終盤のトグサなんかも完全にヒステリー症に憑かれてる)。この場面で9課の面々が直面することになる課題はフェティシズム批判にほかならないだろう(「大きな物語」というか象徴のネットワークを補綴する偽造された補遺物としての「腐敗した政治家=父性権威」みたいな。違うかな?)。そこでフェティシズムつながりでマルクスっぽい図式をもってくれば、笑い男とは商品交換の無限に連鎖する横滑りをせき止める一般的等価形態としての貨幣である、みたいなことが言えるかもしれない。正確にいうと、その貨幣の背後にはなんにもない(無がある)という現実を隠していることじたいが、すでに(潜在的にはすっかり)知られてしまっている貨幣のようなものなのかもしれない。
 たとえば押井版の『イノセンス』とか、同じ神山監督の『攻殻機動隊solid state survivor』なんかを見た印象で、本作同様に貨幣的な主題を担わされている(物象化された)子どもたちという形象との差は、良い悪いは別として(もちろん「悪い」んだけど)、そこでの子どもたちや老人たちがフェティッシュ(排泄物って言ってもいい)としてまがりなりにも経済領域を潤滑に運行させていたことに比べて、この作品での笑い男という現象にははるかに社会に対して壊乱的なところがあるようにも思う(リミットに触れかけていて、そこに古い象徴空間を解体する「消えゆく媒介者」が介入しうる余地が生じている)。

 思いつきの印象に、ついでだからさらに漠然とした印象を重ねてみる。主体におけるラディカルな政治的行為みたいなメッセージが前面に押し出されている本作だけど、そこに盛られた「書かれた言葉」みたいな細部の主題から眺めてもちょっとおもしろいかもしんない。トグサの捜査はサリンジャーの小説を丹念に読むことから進展をみせて、授産施設のロッカーでの笑い男にまつわる落書きにうながされつつ、そこから村井ワクチンの接種者リストのファイルを入手することによって後戻りできない核心部へと進み、最終的に素子とアオイとの対話で、事件のすべての起源にあった一通のメールによる告発文の存在が知られることになる。現実なるものの侵入と象徴のネットワークの壊乱が描かれるこの作品の世界のかたわらにつねにそのような言葉が随伴していた事実には、物語の構成要素以上にはそこになんの意味もないんだろうけど、この細部はちょっと魅力的に思えてしまう。なにかもっと使える手立てはなかったろうか?

 ……ともあれ、おもしろいアニメだった。

ジジェク『厄介なる主体2』

厄介なる主体〈2〉政治的存在論の空虚な中心

厄介なる主体〈2〉政治的存在論の空虚な中心

 前の巻はおととし読んだんだけど、まるっきり覚えてないのが情けない。
 ポストモダン社会に特徴的な「大文字の<他者>の凋落」だとか「父性権威の失墜」だとか「大きな物語の消滅」だとかいう事態を巡る議論は、(その手の議論にはぜんぜん詳しくないんだけど)たとえば東浩紀動物化についてのはなしなんかをちらほら読むに、監視社会的というのか環境管理的というのか、個人の主体化という経路をへないで工学的に(ちょうど牧場の牛とか羊を見回るみたいに)人間を即物的に取り扱い(同時にまた、即物的な手段で)「不過視」の囲いの中に留め置くというような、権力構造の分析を当然ともなうわけだろう。動物化っていうのはやめて正直に家畜化とでも言い直せばいいような気もするけれど、ともかく、そこではネーションとか宗教みたいな大きなイデオロギーが個人に対して規律を内面化させたり歴史というでっかい物語の中に位置づけてやったりという、主体(化)の近代的な人間化のプロセスはあんまり問題にならないと。『動物化するポストモダン』でのオタク論は、そういうようなポストモダン的な状況を反映する対応物として、「データベース消費」だったり「小さな物語」を生きるオタク的な倫理(主体化なき主体といってもいいような)の可能性が探られているんだろうけど、ジジェクの議論からいくと、そこにはまだイデオロギー批判とか主体論的な立場からつっこむ余地があると(精神分析みたいな近代的な枠組みは事態をさらに深く見通すことが出来ると)。「大文字の<他者>の凋落」というような自己再帰的な事態の全面化には、精神分析がこだわる父性の比喩にならって、享楽する超自我としての(死んだ/ことにみずから気づいていない)父の姿が裏面から浮上するという事態がともなっていると。享楽みたいな「現実なるもの」への「激しい愛着」は、ヒステリー症的主体から倒錯症的主体、原理主義からリベラリズムバイアグラからリストカットの問題まで貫いて、そこにいまだに主体の課題が横たわっていることを証している、と(ポストモダン的消費に顕著な「萌え」とかサンプリングとか「データベース消費」なんかを可能にする欲望それじたいは、ではどこから汲まれてくるのか?、みたいな問題を設定すると、たしかに動物化とか環境分析的読解の手前に主体のはなしが先行しなけりゃならないような気もする)。ジジェクのこの本の狙いはそこに「真正なるポリティクス的な行為」を貫かせる主体の道をみちびき出すことで、東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』で読み解いたポストモダン状況における倫理的な選択の問題とどういうふうに重なるのかな、とちょっと思った。主体の欠乏とか消えゆく媒介者とか二つの死をくぐり抜けるとか、そうはいってもジジェクはえらく生き生きとしてるわけで、東浩紀のどことなくメランコリックな(「泣き」に執着してるみたいな)情念がうっすらとはりついたような作品読解よりは、個人的には好ましい。

ナタリー・サロート『生と死の間』

生と死の間

生と死の間

 この小説は正直よくわからなかった。ヌーヴォーロマンのめぼしい作家の作品をそれぞれ一、二作ずつ読んでみたなかで、いちばん手応えが掴めない。底が見えない感じ。(平岡篤頼が解説で指摘している話法や文体論的な水準から見れば)難解といえば難解な作品なんだろうけど、そうは言ってもそこで(目に見えるかたちで)取り扱われている語彙や観念に難解なところなんてさっぱりなくて、作家が描こうとしている主題だとか筋や構成なんかにも、取り立てて人を寄せつけない難解なところがあるわけでもない。平岡篤頼は解説で、「描写する行為そのもの、描写言語そのもので成立している小説、つまり、主語も目的語もない動詞だけで成立している小説」という風に見事にこの作品の勘所を押さえた指摘をしているけれど、言われてみたらまさにそのとおりで、『生と死の間』という作品を読んでいた最中ずっと感じていた「影絵」による紙芝居でも見ているかのような視線の落としどころにとても困るあの感覚は、なるほど、「ぼく」や「彼」、「彼女」、「われわれ」や「彼ら」といった、そこで代名詞により仮に名指される固有名をもたない人物たちが、形象としての具体的な顔をそなえた人物としてはほとんど(あるいはたぶん、まったく)像を結ばないというところにあるのかな、と思った。人物のしぐさや動作、事物の様子なんかの描写はあっても、それらが有機的な流れの中でひとつらなりに繋がっている感覚は希薄で、リバーブというか残像効果のあるコマ撮りによるシルエットの映像を眺めているようなイメージがある。焦点化される場面は場面でまた、作品総体の流れのなかでの配置は別にしても、隣接しあう諸場面どうしの繋がりには緊密さのしばりがまったくない。
 ここには言葉とイメージとの連関にかかわる稀有な実践例が書きつけられているような気がするけれど、結局はさっぱりわからない。癪にさわるんで、サロートによる冒頭の見事な文章を写してお茶を濁しておく。

彼は首を左右に振る、瞼に、唇に、皺を寄せる……≪いや、どう考えてもだめだ、これではいかん≫彼は腕を伸ばす、その腕を折り曲げる……≪私はその紙を引きずり出す≫彼は拳を握りしめ、それから彼の腕が下にさがる、彼の手が開く……≪わたしは投げ捨てる。新しい紙を取る。やりなおす。タイプライターでね。いつでもタイプで。絶対に手で書かないんでね。わたしは読み直す……≫彼の顔が左から右へと揺れ動く。唇が不満そうに突き出される……≪やっぱりだめだ、また今度も。わたしは引きずり出す。くしゃくしゃにする。捨てる。そんなふうにして、三回も、四回も、十回も、やりなおすんですよ……≫彼は唇に皺を寄せる、眉をしかめる、腕を伸ばし、その腕を折り曲げ、下におろす、拳を握りしめる。

クロード・シモン『フランドルへの道』

フランドルへの道

フランドルへの道

 この小説はいろんな意味でビビった。ちょっと今まで読んだことのない凄味がある。パッと目につきやすいところで文章の異様な構成みたいな部分が語りどころなんだろうと思うけど、外国語の知識もないしよく判らないのでその点はスルーせざるをえない(悲しい)。その他で気になった部分をメモがてら(とてもじゃないけど気がついた点ぜんぶを書くことは出来ない)。
 大雑把に言って、広い意味でのファミリーロマンスというものが、「パパ-ママ-ぼく」から成る三人の人物たちのあいだの葛藤だとか愛着だとか反目だとかを動因にして家族という基盤のうえに三角形の図形を描くものなのだとすれば、その「パパ-ママ-ぼく」から形づくられる家族の三角形の前史として、たとえば、一人の女を巡る二人の恋敵の男たちの形づくる、いわゆる「三角関係」の物語といったものもまた、その広義のファミリーロマンスの変奏として数えあげることが出来るのかもしれない(前者の三角形が、すでにその場に集まっている定員の中での力関係の帰結を描くとすれば、後者は、一夫一婦制というか制度としての純愛みたいなものが用意した家族の定員への参入の可否を巡る力関係を描く、みたいな。後者の「三角関係」はまた、前者の三角形の成立した後にもその上から重ね描きされることが出来るので、上記の「家族の三角形の前史」という言い方は語弊があるかもしれない。状況はもっと複雑なものでもありうる)。 『フランドルへの道』という小説の内部には、このファミリーロマンスを構成しうる「三角関係」の物語の主題があちこちに散らばされている。
 (ひとまずはいちおうこの小説の語り手と目してよい)ジョルジュという名のフランス軍の騎馬隊に属する兵士の前には、部隊の上官であり遠い縁戚関係にあたるド・レシャック大尉と、大尉の持つ競馬馬の馬丁にして競馬騎手であり行軍の従者としての勤めもはたすイグレジアとのあいだの、大尉の若い妻コリンヌを巡る三角関係めいた関係がある。また、ジョルジュにとっては母方の血筋を介して遠い先祖にあたり、ド・レシャック大尉には百五十年前の父祖にあたるレシャックという人物は肖像画の中でこめかみから血を流したまま謎めいた沈黙をつづけているのだけれど、彼の今となっては理由の知れない拳銃による自死が、ジョルジュと彼の周囲にその死の謎を巡る解釈の言説を希薄に、しかし幾重にもわたって漂わせることにもなり、その結果浮上してくるレシャックの亡霊じみた姿として、この男もまた(大尉と同様)、あるいは自分の留守中に重ねられていた使用人と妻との情事の場面に遭遇した一人のコキュであったのではないか?という強い信憑が、小説の読み手とジョルジュとに分けもたれることになる。ド・レシャック大尉の血統を中心にして時間軸の上で照応的に描かれるこの二つの三角関係(間男と妻、その寝取られた夫との三者が形づくる痴情関係)は、ジョルジュたち騎馬隊一行がその行軍の途上で宿を借りるために寄った村の一軒の民家で演じられるいまひとつの三角関係の劇(びっこの男と村の助役のあいだで妻を巡り交わされる激発寸前のいさかいの場面)を、ジョルジュの眼前の空間に近々と招き寄せることにもなる。
 『フランドルへの道』の内部に散布されているこれら三角関係の主題は、しかしそこにファミリーロマンスを呼び寄せるのではなく、むしろまったく逆に、そのような家族のドラマを流産させるようにしてテクストを形成する。そもそもここで言われる三角関係は、正しく言うならば三角関係を形成しえない反三角関係のようなもの、単純に、あらかじめ失敗した三角関係のなれの果てのようなものを指しているだろう。ド・レシャック大尉は自分の妻と従者との密通に明らかに気づいていながら、そこから愛憎や葛藤のドラマを引き出すことがまったく出来ず、戦場でのなし崩し的な自死の過程に身を晒して自分の先祖の死を(いくぶんか自覚的に、いくぶんか無自覚に)反復することしか出来ない。あるいは村の助役とびっこの男との一件にしても、テクストの過程でその痴話のドラマの内実を巡って登場人物たちのあいだに複数回交換されるどうにも要領のえない不明瞭な会話の始終を追うかぎり、そこには結局、一人の女を巡って争われる二人の男たちの正統性、家族という聖なる制度の問題の核心のごときものが賭けられているのではさらさらなく、家系を同じくした兄弟(兄妹)どうしの「雌やぎ」や「雄やぎ」がその多情な性情のおもむくままけものじみた(乱婚的な)なわばり争いでもしているかのような姿しか浮かんではこないだろう。

 家族と家系という、人間の生がそれに従って歴史の一部を形成するものとして綿々と継続されていくことの担保としてある制度を、クロード・シモンの『フランドルへの道』は、大地と自然のもつ崩壊の過程に(崩れていく死んだ馬の肉塊といっしょに)投げ込んでしまう。ファミリーロマンスはあえなく失敗する(つねに失敗しつづける)。
 にもかかわらず歴史というものが現にあるとするならば(家族や家系という擬制がまがりなりにも存続しているものとするならば)、そこではいったいなにが歴史や家系や血統のような壊れやすいものを支えていっているのか。クロード・シモンの『フランドルへの道』は、そこに「戦争」というものを差し出すように見える。

≪そして彼(ジョルジュ)の父は依然として、まるで自分自身に話しかけでもするようにしゃべりつづけ、あの何とかという哲学者の話をしていたが、その哲学者のいうところによれば人間は他人の所有しているものを横どりするのに二つの手段、戦争と商業という二つの手段しか知らず、一般に前者のほうが容易で手っとりばやいような気がするから、はじめ前者のほうを選ぶが、それから、といっても前者の不都合な点危険な点に気がついたときにはじめて、後者すなわち前者におとらず不誠実で乱暴だが、前者よりは快適な手段である商業を選ぶもので、結局のところあらゆる民族はいやおうなしにこの二つの段階を通過し、(以下略)≫30頁

 戦争というものが「他人の所有しているものを横どりする」手段であるとされるこのくだりからは、たとえばジョルジュが一兵卒として参加しているこの戦争がフランスという寝取られ男とドイツという間男とのあいだで母国フランスの領土を巡って争われる戦いであったという認識が読み取られるべきなのかもしれないけれど、その種の象徴の解釈のようなはなしはおいておいて、ここではこの、「他人の所有しているものを横どりする」明らかに間男の振る舞いそのものにかかわる主題が、ファミリーロマンスという神聖でありながら空っぽでもあるような擬制のつるつるした皮膚を内側から食い破って(ちょうど死んだ軍馬のぽっかりと開いた傷の穴からどこからともなく溢れ出ていたようなあの)無数の蝿や蛆虫たち、蟻の行列のような数え切れないひとかたまりの群れをテクストへと蝟集させていたようにして*1、無数の馬丁や下男、従僕や作男、使用人たちといった間男の階級の系譜による、淫奔で多情な女たちのその夫の手からの掠取、かどわかすことの成功をつねに約束しているさまを読み取るべきなのではないだろうか。戦争が終結したのちに、ド・レシャック大尉の戦死でいったんは寡婦になったはずのコリンヌを周到にも(?)再婚させ(再び正妻の身分に座らせ)、しかるのちにあらためてジョルジュを彼女のもとへ間男の身分として姿をあらわすことを可能にし、思うさま性交をむさぼらせることになるクロード・シモンの筆致は、そのたくらみの始終を雄弁に語っているようにも思う。たとえばそこで第一に問題となるのは、ファミリーロマンスの問題を構成するはずの精神分析的な転移の課題などではなくて、一組の幸せな男女が形成しえたかもしれない(潜在的な)家族の三角形のその死角、いわば横合いから突如侵入し、女に種をつけ、聖なる三角形の底辺をいつでもいびつに歪ませる間男の、その「横どり」の問題なのかもしれない。すると、ジョルジュじしんの存在と出自もまた、あるいはひょっとしたらそのような、かつて交わされた名前も知らない間男と母親サビーヌとのあいだの姦通を証するものなのかもしれず、とすると、あずまやに腰掛けひがな一日「ハエの足跡」のように細かい文字を綴って崩れゆくだけの日々を過ごす彼の父親、溶け出しはじめた「肉塊」とも形容され、息子とのあいだにはほぼいかなる繋がりも担わされることのないあの父親もまたド・レシャック大尉に連なるファミリーロマンスの系譜にくわえられてもかまわないはずで……と、ここまで書くと妄想もさすがに過ぎる。
 ともあれ、『フランドルへの道』はいろんな意味で凄い小説だ。きりがないのでこの辺でやめとく(表象の問題のこととか崩壊の主題のこととか、まだまだたくさん触れていないことがある)。

*1:ひょっとしたらこのあたりを取っ掛かりにして、クロード・シモンのこの『フランドルへの道』というテクストのちょっと異様なまでのセンテンスの終わりのなさを考えることができるのかも知れない。

マニュエル・ゲッチング/E2-E4

E2-E4(紙ジャケット仕様)

E2-E4(紙ジャケット仕様)

 マニュエル・ゲッチングのE2-E4の何が困るかといって、このCD版でトータルタイム59分34秒に及ぶ一曲を収めたアルバムを一度聴き始めてしまうと、その間ヘッドフォンを耳から外して他のことをすることが(たとえば本を読んだり考え事をしたりすることが)まったく出来なくなってしまうってことだ。
 たとえばポストモダン的な読書体験の教訓のようなものとして、『吾輩は猫である』みたいな長い(にもかかわらず、本質的には断片的な)小説を最初から最後まで読み通す奴は馬鹿だ、みたいなことを言う人がむかしいたような記憶があるけれど、そこで言わんとされているような、「読んだ」という事実がある種の「苦行」をくぐり抜けたかのようなナルシスティックな達成感と短絡しているような読み方は確かにまったくダメだとしても、しかしそのような発言をすることでそのポストモダン的な識者がそそのかそうとしている「教訓やら人生訓のような意味のない重荷をはずして手ぶらに読むことの権利(ないし、過酷さ)」みたいなこととはひとまずまったく関係ないところで、人は読みたいものは石にかじりついてでも読み続けるだろうし、あるいは『大論理学』みたいな本をベッドで横になって読むんじゃなくて眉間にシワを寄せて机にかじりついてでも読まざるを得ない内発的な動機に促される場合だってあるだろうし、『猫』を無我夢中になって最初から最後まで通しで読んだりもするだろう。『大論理学』はどうだか知らないけど、漱石の『猫』なんかはふつうに面白すぎて、けっこう平気でぶっとおしで読めたりする。ポストモダン的な知識人の自由の擁護みたいな見地から発せられたその「教訓」はだから、一方で(あまり意味があるとは思えない)とても抑圧的な効果を波及させたりもしていただろう(「これを読み通す必要はない」という反教養主義的なメッセージが、「これを読み通してはならない」という抑圧的なメタメッセージとして誤認されることの可能性みたいな)。
 マニュエル・ゲッチングのE2-E4を聴いていて困るというのは、デジタルなユーザー環境がトラック単位(どころか秒単位)で読み出し可能にした、楽曲への聴き手のアクセシビリティ(データに対する「自由」な操作可能性)、ということは同時に、楽曲から気に入らない部分を遠ざけ退けることも可能にする「自由」な態度が、しかしこの楽曲のもたらす音楽的体験の強度を前にして、聴き手はおのずからそのような「自由」を放棄するよう促されつづけるという、ある種とても不埒な経験にこそある。端的に言って、E2-E4はそれを一度聴き始めたらその音楽の場からみずからを引き離すことなど容易には許さないくらいに、これはもうほんとうに素晴らしい楽曲だってことだ。
 自分自身のためのメモもかねて簡単な紹介がてら書いておけば、マニュエル・ゲッチングという人は七0年代のドイツでアシュラ・テンプル(のちにアシュラ)というジャーマン・プログレのバンドに属していたギタリスト兼シンセサイザー奏者で、このE2-E4という作品は、おりからのパンクムーブメントとニューウェーブの興隆の煽りを食らって半ばレコード会社(ヴァージン)から放逐された恰好だったゲッチングがベルリンのスタジオにこもって八一年に制作してあった録音を、八四年にたまたまかつての盟友クラウス・シュルツ(元タンジェリン・ドリームのドラマー)の耳に入れたことがきっかけで、シュルツのレーベルからリリースされることになるという経緯をもっている。テクノの歴史的には楽曲の成立過程と同じくらいに重要なのが、同時代からは無視され黙殺されてしまっていたこのE2-E4を、リリースから十年後、九四年にデトロイトカール・クレイグがペーパークリップ・ピープル名義で自分の主催するレーベル(プラネットE)から「リメイク」というタイトルでカヴァーしたことにあるだろう。以降は、不遇だった時代の負債を取り戻すかのように、テクノとかハウスの音楽シーンでは一個の大きな参照項としての地位をしっかり確立しているようだ。
 カール・クレイグのリミックスは聴いていたんだけど肝心のゲッチングのオリジナルを今まで耳にせずにいたことを思い出して、あらためて調べてみたら去年に紙ジャケ仕様のCD版がリイシューされていたことをこの前知って、そこでようやく本編を耳にすることが出来たのだった(その存在を知ってから、実に13年目にしてやっと)。


 E2-E4の抱える59分34秒という持続するその時間のすべては、ロックの8ビートの性急な感じともまた違う質感をもつ、もっとゆったりとした八拍の電子音の(BPM120弱くらいの)リズムをキャンバスのような「地」として、その上で基調音として響くシンセベースの短い旋律を基本単位にして反復させることに費やされている。データ上ではトラック単位での区切りがいっさいない一連なりの楽曲として音楽が反復的に持続していくのだけれど、名目的にはゲッチングはこれを、10のパートに分けて構成していて、それぞれのパートには、展開するチェスの勝負の諸場面に見立てたタイトルがつけられているみたいだ(エンボス加工のシンプルで美しいジャケのデザインはチェスの盤を模している)。その反復する基本のリズムとメロディの上に、音響素材的なシンセの単音がアクセントとして散発的に色取りを添え、新たな音の要素が細かく出入りしたりしながらちょっとずつ空間のニュアンスを変えていくことにより、長い持続をまったく飽きさせずに支えていっている。この楽曲の聴かせどころは、31分過ぎから本格的に始まるゲッチングによるギターのフリー演奏とプログラムされた電子音響とのセッションの場面にあると思う。E2-E4という楽曲は、今日のテクノやハウスのシーンにおけるその受容状況が明確に語っているように、もともとの音の質感がとてもトランシーで(そのストイックでシンプルきわまりない構成のゆえに、むしろ)全編ダンス的な振動に貫かれた楽曲ではあるのだけれど、たとえば、カール・クレイグのリメイクという優れた名曲にはなくてゲッチングのオリジナルだけがもっているグルーヴ感とはこの、ゲッチングのギター演奏それじたいがそこで、じかに、すでに、聴き手にダンスの感覚を生じさせるより早く、シンセとともにたしかに踊っている、という羨ましいほどに感動的な光景を見せつけてくれていることにあるのだと思う。ここには、「ダンスのために組織された音」と「それじたいがダンスとしてある音」との差がある。という意味合いで、このゲッチングのE2-E4という楽曲を聴く者は、何よりもまず、そこで(ゲッチングのかきならすギターの旋律の運動に耳を晒しつつ)歯がみせずにはおれないような嫉妬とこの上ない愉快との二つの情動のあいだで身を裂かれる体験を強いられる者、という風に言ってもいいかと思う。
 たとえばそこには、七0年代初頭にノイ!のクラウス・ディンガーがドラムマシンのようにジャストなテンポで刻んでいた倒錯的なビートとはまた別種の、電子音響と人間との出会いの瞬間が刻印されているかもしれない。同じくノイ!のギタリストだったミヒャエル・ローターが抱いた「機械のリズムとセッションを交わすことの夢」が、ここではゲッチングによって全面的に開かれ実現されている。
 六0年代後期から七0年代にかけて活躍したノイ!やクラスターの手がけた電子音楽には、シンセの音を「演奏的」に使用してトータルに自分たちの楽曲を作り上げるというようなミュージシャンぽい志向がはっきりとうかがえる(ジャーマンロックの人たちは、総じて、ブルースとかロックといったプレイヤー志向の音楽に基礎をおく、ミュージシャンとしての相貌ももっている)。他方、八0年代半ばから活動を開始するデトロイトテクノのおもだった面々には、ジャーマンロックの人たちのようなミュージシャン的な素養に裏打ちされた側面はとても希薄だ(履歴を調べたわけじゃないから断言は出来ないけど。そしてまた、ターンテーブルこそが彼らの演奏する楽器にあたるという視点もありうるけれど、その点につきここではあえてスルーしておく)。
 杜撰を承知で象徴的に見れば、ジャーマンロックとデトロイトテクノとに挟まれた八0年代初めという時代にひっそりとこの世に生まれていたマニュエル・ゲッチングのE2-E4という架け橋的な作品は、「電子音を使って演奏される音楽」と「演奏のないプログラムされた電子音による音楽」とのはざまで、「演奏のないプログラムされた電子音による音楽を聴きながら演奏された音楽」という新しい音楽的経験が誕生していたことの記念碑、事件としての録音、あるいはルポルタージュみたいなものとしての顔をもっているのではないかと思う。「演奏のないプログラムされた電子音による音楽を聴きながら演奏された音楽」とはまた、今日、数えきれないくらいに無数に飛び散ったさまざまな電子音響によるダンスミュージックに合わせて身を踊らせるわたしたちの身体の経験と、じかに通底するところがあるようにも感じる(ジャーマンロックとデトロイトテクノを対比的なテコに見立ててマニュエル・ゲッチングのE2-E4をそのあいだに媒介的に挟みこむ、という以上の図式はかなり安直で無理やりなものに思えるかもしれない。それはじっさいそのとおりで、ここで大雑把に掴まれた電子音と演奏との関わり方の流れのなかには、一義的には決定することのできない、相互に例外をもうけあいながら、この図式からはみでてしまう作品がいくつも存在する。だから、ここで書かれたことのすべては、E2-E4という楽曲を聴きながら感じたおもしろさを、そのおもしろさそれじたいとしては書くことに送り返すことの出来なかった者の、まったく虚構的な、苦しまぎれの息継ぎのようなものとして受け止めてもらえればいいと思う)。