柄谷行人『日本精神分析』

日本精神分析 (講談社学術文庫)

日本精神分析 (講談社学術文庫)

 『ドゥルーズ・映画・フーコー』の丹生谷貴志はその中のいくつかの文章で(映画としての世界における)「絶対的な分身」と(演劇としての世界における)「相対的な分身」という概念を提示している。簡略して乱暴に言ってしまえば、そこにおける「分身」とは俳優にとってのある役柄にあたるもので、その役を演じる俳優(「分身」に対する本体)との分離可能性の有無が「分身」それじたいの相対性と絶対性との弁別を要請している(演劇の舞台の上でマクベスを演じる俳優が意識的にも現実的にもマクベスという役柄からつねに分離=乖離可能であることに対して、スクリーンに映るイーストウッドの演ずるハリー・キャラハンはハリー・キャラハンという「分身」から決して身を引き剥がすことができない。スクリーン上の「分身」キャラハンは「本体」イーストウッドには決して還元されることはない)。演劇としての世界における俳優(的身分)には、自身と「分身」との関係において真の自己(本体)へと向けてみずからの解放や自由意志を夢見ることが可能であるけれど、映画としての世界における存在にはそもそもそのような(「分身」からの脱出というような)疎外論的な発想をすることじたいの可能性があらかじめ、無い。丹生谷貴志の思考は、「相対的な分身」においてはじめて発想可能なこの自由と運命論というような対立関係の裏面で、「今ここに現にある」その「絶対的な分身」を巡って繰り延べられていく(ここで言われている「俳優」とは念押しするまでもなく、演劇とか映画にまつわる論考の直接的な主題が仮に要請している語彙であって、無論わたしたちの生の様態そのものを対象にしている)。
 柄谷行人のこの本の諸論考は丹生谷的文脈に沿わせてみれば、演劇的世界と「相対的な分身」を巡って(標的にして)展開されているように思う(……と言って、別に柄谷のその著書での考察の価値が減ずるわけじゃない。この手の運動にもコミュニズムにもまったく無縁な自分があれこれ言える資格はないし、柄谷行人という人に対してひとかけらも、何らの恩讐も感じていないし、利害関係にあるわけでもない、そのような立場から読んで、率直に、彼の言説のずば抜けた鋭敏さには今更ながらあらためて、何度でも驚嘆するだけだ)。「相対的な分身」といって語弊があるなら、それをもじって、演劇としての世界における「相対的な本体(主体)」の問題と言ってもいいかもしれない。当然のことながら、柄谷行人には「分身」を廃絶して「絶対的な本体」(自由)の場所へといたることが可能であるとするような長閑な発想は皆無だけれど、そこにおける代表制の場における「無記名投票とくじ引き」のシステムの導入なり「市民通貨」なりの議論には、主体に不可避なもろもろのパトローギッシュな感性的偏向(理性=自由の対立物)を充分に見積もった上で、しかしなお、自分たちの行動によって世界を変革しうるという理念にもとづく社会的実践の可能性が強固に信じられている。柄谷氏は、《アソシエーショニズムによる資本制=ネーション=ステートの揚棄は、近いうちに実現されるどころか、何世紀もかかる運動》(226頁)だという厳しい事実を怖れずに自覚し明言しているけれど、おそらくそのような認識は事実認識として厳正すぎるほどに厳正であるだけに、柄谷氏の姿をある種の厳格な預言者のそれと見分けがたいまでに酷似させるだろう(丹生谷貴志はどこかで「最近の柄谷行人ユダヤニヒリズムに近づいているのではないか?」みたいなコメントを口にしてたけど、その真意はおそらく、以上の意味においてなのではないか? その成果が「何世紀」か後にようやく結実するような運動とは、現存する参加者全員にとって、彼らの死後に到来するメシヤ的な希望以外の何ものとして観念されていただろうか?)。あるいは直後に、柄谷氏はこう書く。《(アソシエーショニズムの運動は)漸進的に実現するほかない。にもかかわらず、これは、部分的には、今すぐにここで、実現できるものでもあるのです。》。丹生谷的な「絶対的な分身」と柄谷的な「相対的な本体」とはここでも交差する。「今ここに現にある」あるいは「今ここで現になりつつある」丹生谷的な「絶対的な分身」の様態として「老い」のような内在的な進行過程(そこでは能動と受動、主体と客体、暴力と受苦とかいった相補的な分割を形づくることができない)は、端的に、否定も肯定も関係の無い場所でそのように生きられるしかやりようがない。他方で柄谷氏の言う「今すぐにここで、実現できるもの」とは、実存的な賭けのもつ切実さのようにして、それが「実現」されない局面につねに可能的に脅かされているだろう。そこに人間的な倫理があり、しかしたぶん、同時に、ニヒリズムが充分に培養される余地も生じている。
 勝手な比較をした上で言えば、資質的に自分は圧倒的に丹生谷貴志の文章に説得されるんだけど、しかし柄谷行人がここで何か間違ったことを言っているようには到底思えない。ただおそらく、実践を領導することを謳う理論そのものに(間違った/正しいとかの別なく)一般的な不可避の行程というものがあって、そこに躓く。

丹生谷貴志『ドゥルーズ・映画・フーコー』

ドゥルーズ・映画・フーコー

ドゥルーズ・映画・フーコー

 増補として書き下ろされている短いイーストウッド論(「報いなき受苦の祝祭」)で説かれている文章の内容は、以前の版にも収められていた同じイーストウッドに関するいくつかの論考での主張をあらためて簡潔に再説しなおしているだけのようにも読める。十年前の旧版刊行時にやはり書き下ろしとして収録された「崩壊に曝された顔」という表題をもつ比較的分量のあるイーストウッド論にも展開されていた視点――イーストウッド作品における「老い」の崩壊過程の、イーストウッド自身への眼差し返しという事態への着眼が、新版のそこでは、タイトルに読まれるとおり再度「受苦」という主題のもとに投げ返され、この間『許されざる者』以降撮られた幾本かの作品へと視線を差し向けながら駆け足気味に要点の確認がなされていく。今回の新版増補であらためて小さく主題化された受苦の問題が、フーコードゥルーズといった哲学者たちの仕事を念頭において丹生谷貴志がこの本で語る崩壊や不毛、疲労と寒気、老い、映画的分身といった旧版以来の問題群と微妙に異なるところがあるとすれば、「受苦」という概念がそもそもつねに暗黙に前提しているように、そこには受苦者の憎悪に発するその苦痛をもたらした者への「報い」という問題が拭いがたくまとわりついているという点にあるだろう(端的にそれを、9.11以降の現代的課題といってよいだろう)。主体にとって消費不可能(ということは同時に当然、交換不可能)である老いにおける崩壊過程や中間領域に拡がる不毛の経験といった哲学的課題に終始粘り強くこだわり続けているこの本の諸論考に、「受苦とそれへの返報」という交換可能性からなる概念を導入することは、それがその交換の図式にあらかじめ無効を宣するために仮に呼び込まれていることが明らかなのだとしても(「報いなき受苦」)、そこに丹生谷貴志という書き手のごくごく微細な変質の兆しのようなものを疑わさずにはおかないような気がする。むろん、崩壊にしろ不毛にしろ(あるいはアルトー的な「絶対的な分身」と言ってもよいし、フーコー的「自己」と言ってもよいし、イーストウッド的な「寒気と疲労」と言ってもいいけど)、丹生谷貴志が身をすり寄せるようにして引き出してくる厚みのない概念はいつでも両側を崖に挟まれたような隘路の行程の中でようやくかろうじて現われてくるクリティカルなものであったはずだから危機はつねに踵を接して書き手とともにあったことは確かなのだけれど、ここにいたって「報いなき受苦の祝祭」を呟かねばならないことの倫理的な暗色の、うっすらとした翳りが、どこかしら否定しがたくへばりついていることに軽い驚き(と言って大袈裟ならば、まあ小さな違和感のようなもの)を覚えてしまったことも確かなのだった(まあ自分、どんだけノウテンキな世界の住人なんだよってことだとは思うけど)。丹生谷的語彙における崩壊だとか不毛だとかは、それが「受苦と報い」の連鎖を構成しうるような相互に外在的な交換関係(「外部と内部」、「彼岸と此岸」、「不毛とその馴致」、「崩壊と秩序化」みたいな対立図式)にあるように見えるときですら、その偽りの相互依存の関係の裏面で、「真の崩壊」、「真の不毛」、「真の荒野」の位相として、今ここに現にそれが現れて作動しつつある現動性、内在性が何度でも執拗に確認されることになるわけだから、「報いなき受苦の祝祭」の消費不可能性をあらためて確認する丹生谷貴志のことばはここでも何らブレを示しているわけではない。しかしまた、老いにおける崩壊や中間領域の迫り上がりが記述の連なりの過程で徐々にそれじたいの内部からの発光によって暗闇の中に輝きを放ち始めているとするならば(現にそのように読んできたんだけど)、書き手が十年の歳月を経て同じ対象を選んであらためて新たに主題化するこの「報いなき受苦」の概念にはアイロニカルな表情がいつのまにか被ってしまった蜘蛛の巣のように、うっすらと、払いがたくまとわりついてしまっているように思えてしまう。その意味でここにおける「受苦」の概念は二重に苦しげなものに思われ、言論人の応答責任といった姿勢(?)に特有の息苦しさ、正義と倫理を語らなければならない覚悟をした者に不可避の暗色、抜けの悪さから充分に逃れえていない(丹生谷貴志は端から「逃れよう」とはしていないのかもしれないけど、「死者の汚辱」といった倫理的痛みの場所からすら可能的に望遠されていた新たな場所への移行や、自殺を語るフーコーからさえ引き出しえたかもしれない「とても単純な喜び」の可能性の核心を、「報いなき受苦」のどことなくシニカルな視点は、内在的にあらかじめ取り零してしまっているのではないだろうか?)。……迂闊なことは言えないけど、丹生谷貴志は難しい場所へと到ろうとしているんだろうと思う。

クロード・シモン『ファルサロスの戦い』

ファルサロスの戦い

ファルサロスの戦い

 三つの章からなるこの小説の第一章の部分は「I 大股で走る不動のアキレス」という標題がつけられており、エピグラフとしてヴァレリーから借りてこられた断章が掲げられている。ゼノンの有名なパラドックスのひとつに託されて作家にイメージされているこの「大股で走る不動のアキレス」のヴィジョンは、そこで取り扱われることになる運動や記憶、想像力といった諸モチーフを差し合わせながら書かれていく作品のことばたちを、あらためて書くことの運動それじたいへと送り返そうとする作家の営みの絵解きとして読み手に読まれることになる(クロード・シモンの小説を読むのはこれで三作目になるけど、読み手に対するこの手の親切な――親切というより、ことによったらじゃっかん「擦り寄っている」という印象すら与えかねない自作への明快な解題の振る舞いにははじめて接した気がする)。ゼノンのパラドックスというものがどういうものなのか詳しくはよく知らないけれど、ちょっとウィキって覗いてみた感じで(このあたり)、運動やできごとといった本来生きられてある(べき)ものとして経験される生の世界が、そこでは無限回にも繰り返される観念の内部での抽象的な手続きの背進的更新によってついにカチンコチンに凍りつく、そのような事態の可能性というふうに、ここでは大雑把に了解しておく。放たれた矢は運動を奪われて空中で静止し、アキレスは去っていく亀を追いかけて永久にそこに到達できない。哲学的にも数学的にもいろいろと解決の方途のさぐられたらしいこのパラドックス*1の結論を、その世界像を、クロード・シモンは作品のことばを書くという現に「生きられてある」運動の水準において、その書記行為の前提として受け入れるだろう。この期に及んで今更こんな文章であらためて念押しするまでもなく、原則として作家が作品のことばを書くこととは、それがなんらか生の実質を充たす(作品という「子」の)誕生にも似た祝着の経験としてあるのではなく、語とイメージの緊密な連関の中で、そこで選ばれることのなかったことばたちを刻々と殺害していく血なまぐさい排除の営みとして、その傍らにみずからの手で死産させた遺骸の山をうずたかく積み上げていく営みとしてあるだろう。同様に、もろもろの語がある運動体のイメージの描写に奉仕するとき(運動の似姿を描こうとするとき)、ことばはじしんがそのために費やしたイメージを裏切っていよいよ運動物から運動を奪い去り(鳩の飛翔から飛翔を奪い去り、あるいは矢は空中で静止し)、あとにはなにか運動によく似たもの、まがい物でできたガラクタの山を紙の上に積み上げることの徒労が残ることになるだろう。*2 ゼノンの預言はこのようにして、クロード・シモンの『ファルサロスの戦い』という作品の上でも確かに実現されている。太陽の黄色い光の中によぎる一羽の鳩の大弓のような黒い影は一回限りだったはずのその飛翔を幾度も繰り返すことになるし、裸体の間男は弓矢にも剣にも投槍にも似たその勃起した一物を股間にそびえ立たせながら、描かれた、あるいはかたどられたローマ兵の姿にも似て、同衾した女とともに寝床の上で石のように固まりかけつつあり、敗走する騎馬兵のギャロップする姿もまたファルサロスの戦いから二千年ごしの不動の疾駆の姿勢を強いられて永久に続く潰走の過程に凍りつく。そこではあらゆる時間と運動の過程が、イメージを繋ぎとめる語の抽象力によって空間の中ではりつけになり、微分され、縮滅され、宙に吊られることになる。しかしまたそのような場所にしか書くことを自覚的に引き受ける者としての作家の居場所はないと、クロード・シモンは考えているのではないか。潰走につぐ潰走、運動の縮滅につぐ縮滅によって身じろぎひとつ許されない静止した空間の中で、しかしファルサロスの丘を無数に飛び交う矢の一本いっぽんへと視線をめぐらせ、次から次へと跳躍し、あらゆる事物を凍りつかせながら、作家はことばを崩壊へと差し向けていこうとするのではなかったか。クロード・シモンとはおそらくそのような人なのではないだろうか?(それを凄いと思うか、つまらないと思うかは、また別の問題として)。

*1:それをたとえば、ゼノン(=超自我)から発せられた禁止を命ずる威嚇の声を内面化した神経症者アキレスの、その発症の過程の論理学的サンプルのようなものとしても解釈することができるかもしれない。無茶かもしれない。

*2:時間処理の巧みな作家として、最近ちょぼちょぼ読んでいるヴァージニア・ウルフを思い出す。簡略して図式的に描けば、『ダロウェイ夫人』の説話においては事態はおおむねこんな具合に進む。『彼女は家を出て葉書を出しにポストへむかった→(心内語/モノローグ)→そこで彼女は目の前にポストを見出した→(再び心内語)→……』ヴァージニア・ウルフの最期が自殺だったという事実を知らなかったとしても、精神錯乱に陥った一人物の投身自殺がトピックとして扱われるこの小説の上記の説話に危機的な徴候が兆していることは即座に察知される。この説話の流れの中で、たとえば心内語によるモノローグにあたる箇所が事物(ポスト)に出くわすことなく延々と続いた場合の空虚の混入、あるいは、ポストをひとたび見出した人物が、しかしモノローグを介して再び、何度でも繰り返してポストをしか見出せない場合の不純物としての事物の出没を考えてみればよいと思う。「意識の流れ」の実践例として穏当に読まれているこの叙法の裏面に、怪物じみた経験の出来する可能性がぴったりと貼りついているさまが読み取れるのではないか? 事物とはクロード・シモンのこの作品において「アキレス」に対する「亀」にあたるものと見てよいし、上記「不純物としての事物の出没」の様相は『ファルサロスの戦い』で欠伸を催すほど反復される対物描写の、原型的な最小単位を構成しているものと見ることも可能かもしれない(思いつき)。

マルグリット・デュラス『愛』

愛 (河出文庫)

愛 (河出文庫)

 この作品の舞台となっている場所(S.タラ)やそこに生きる人物たちは『ロル・V・シュタインの歓喜』で描かれた世界と地続きではあるけれど、であるがゆえにいっそう、それら二つの作品のあいだに横たわる差異が読み手の意識に強く印象づけられる。このごく短い作品に登場するおもな人物はたったの4人だけで、名前も持たないそれら人物たちを『ロル・V・シュタインの歓喜』の物語の中での固有名と結ぶつけること(同定すること)はべつに難しいことじゃない(訳者が解説で親切に示してもいるけれど)。両作に接した読み手の意識にとっては、そのような作品世界の連続性ということはあまり問題にはならないと思う。端的に、ここではあの、かつてロル・V・シュタインだったはずの女が決定的な(後戻り不可能な)解体の過程に晒されてしまっていて、男たちにも読み手にとってももはや手の届かない(非)場所へと沈み込んでいってしまっている。『ロル・V・シュタインの歓喜』においてはまがりなりにも作動していたとみなすことのできる三角関係の図式(転移だとか欲望の構成する構図みたいなもの)は、ここではいかなる意味においてもまったく働くことがない。ロルにおいては、そのような欲望の構成物はあらかじめ流産したものとしてよりほか、もはや現れようがないだろう(作品の中で何度か響く子供の呻き声だとか、女の「子供を待っている」という発言は、女が何者かの子を身籠っているということを暗示しているわけではなく、女みずからが、産まれてくる以前にS.タラという歴史の停止してしまっているような土地そのものにその身を奪われる、いわば不断に死産する胎児としてあるさまをこそ明らかにしているように思う。その意味で、この作品のスカスカで、枯渇しきって、しかし同時にこれ以上ないくらいに濃密な言葉の連なりの数々は、死児のエクリチュールとでも呼べるかもしれない)。あるいはひょっとしたら、かつて『ロル・V・シュタインの歓喜』においてロルと呼ばれていたあの女は、この『愛』という作品においてはもはや、それを狂気と呼ぶのもはばかられるような、S.タラの浜辺の砂だとかそこに吹く風、夜の大気だとか満ち干きする潮の流れみたいな、主体の残骸とでも呼ばれるしかないようなほとんどモノと区別のつかない位相にまでその存在を切り詰められようとしているのかもしれない(言い過ぎかもしれない)。

 女が『ロル・V・シュタインの歓喜』とのあいだに絶対的な(還元不可能な)差異としてある生(/死)の過程を刻みつけていたとするならば、舞台となるS.タラという名の土地もまた前作『ロル・V』とはまったく異なる姿を浮上させており、おそらくこの作品におけるデュラスの試みの大きな力点として、このS.タラの風景を更新させる心積もりがあったに違いないと思われる。海があり砂浜があって、そこに吹く風が男たちと女をなぶるように流れてゆき、背後には密集した家々が廃墟の数々のようにひかえ絶えず腐蝕の音を軋ませており、そこで女はあてどなく徘徊しつつ、不意に場所を問わず眠りこけ、そして静かに錯乱していき、男はいかなる動機もかいたまま夜を日に継いで火災の炎を放ってまわり、黒い煙があちこちで立ちのぼる中、サイレンの音はいたるところで響き渡る。夜が明けて朝の光が溢れ、九月の昼の光線は眠る女のまぶたを容赦なく打ち、やがてそれもしだいに弱まって、夕方の柔らかい光へ、再び夜の闇へとすべては沈んでいく。しかしそこで、S.タラの自然の時間のサイクルは人間のもろもろの営みを励ましたり妨げたりすることはほとんどない。それはそれそのものとして、人間の営為とはまったく関係を持たずに流れていく。S.タラの歴史の時間はそこでは完全に腐蝕し停止してしまっているように見える。
 
 『愛』という作品の中で何が起こっているのか、まったく理解できないけれど、まあそれはとても怖ろしいことだとは言える。繰り返す。怖ろしい。

ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』

灯台へ (岩波文庫)

灯台へ (岩波文庫)

 この小説はごく単純に家族小説のようなものとして受けとめてよいものだろうか?(読み終えてみてもうまく判断できない)。
 ラムジー夫妻という一組の父母の綾なすエディプス的な(モロにヴィクトリア朝時代的な)家政の権力を巡るドラマを中心に、彼らの子どもたちが父と母の形づくった(広い意味での)「約束」みたいなものをいかに果たすことになるのか――、という理解で正しいのだろうか? ……その場合「約束」というのは、狭い意味で明示的には、それに関する母親ラムジー夫人の六歳になる息子ジェイムズへの根拠のない(しかし我が子への愛情と慈しみには溢れた)言質としてある作品冒頭のセリフ(「そう、もちろんよ、もし明日が晴れだったらばね」)によって託されている、翌日の灯台へのピクニックの予定として書きつけられているものだけれど、他方これに比べていくぶんかは見えづらいいまひとつの「約束」として、父親ラムジー氏が、母親のもたらしたその優しげなことばを言下に否定する現実的で厳格な発言(「晴れにはならんだろう」)として象徴的に表現されている、「去勢」の効果の実現としても読み取ることができるのだろう。ラムジー夫妻とその子どもたち――人生の日程が夫妻の影響で大きく左右されるという意味で、そこに幾人かの夫妻の若い友人たちを含めて――が、一篇を通じて交互に交換しあう認識や追憶や感情の形づくるモノローグたちのリレーがその「約束」によって結実しようとするところを描いているようにも思う。
 たとえばこの前読んだ『ダロウェイ夫人』には「歩くことと生きることとの合流」みたいな主題を読むことができた気がしたんだけれど、この作品における去勢の主題は、その歩行を可能にする身体的な部位として人物たちの足(的なもの)への注視を促しているような気もする(それもこれも、積み重ねた仮定が正しかったらのはなしだけど)。
 作品第一部で描かれる、母親の傍らに寄り添う幼い息子の足を木の枝でくすぐるという父親のなにげない所作は、それから十年後の一家の姿を描く第三部の彼(ジェイムズ)によって、それが神話的な怪鳥の「冷たく堅いかぎ爪くちばしを使って何度も何度も」(357頁)繰り返される襲撃として観念されていたさまが鋭い殺意をともなって想い起こされることになるし、あるいはまた見やすいところで、誰かれかまわず無垢な足を轢き潰してまわる荷馬車の車輪というジェイムズの抱く隠蔽記憶めいた幻想(359頁)は、そこに去勢脅迫者としての父親の姿を明確に認めることになるだろう。「立派な靴の宿る聖なる島」(296頁)と揶揄もされ、しきりに「さっさと歩くんだ」(314頁)などと子どもらを号令するラムジー氏の姿からはやはり、足に向かって威嚇する去勢者という像がイメージされるように思う。一方でまた母親ラムジー夫人は、『ダロウェイ夫人』におけるあの「はさみ」だとか時計の「長短針」のような、二つで一組のシルエットを形づくる(いわば)生の護符に照応するものとして、ここでは二本の「編み棒」を握りつづけながら「靴下」を編む姿を読み手のイメージの中に強く刻み込むことになる。
 そのような文脈で、ラムジー家において契られた「約束」は、高く張られ風で大きく膨らんだ船の帆の下で充分見事に操舵し「灯台へ」の航海を成功させたジェイムズによって、確かにそこで果たされた、と見ることもできるのだろう。船の帆であり、灯台であり、あるいは素人画家リリー・ブリスコウのふるった絵筆によって「キャンバスのちょうど真ん中に」(406頁)引かれた一本の線でもあり、おそらく誰かの足でもあるものとは、端的に、ファルスと呼ばれて然るべきものではなかったか?
 しかしそこがまたこの小説の評価の微妙なところで、以上のこの妄想じみた見方が正しかったならば、これは作品としてちょっと厳しいと思う(……このような退屈な読み方が決定的に間違ったものであって欲しいと思う。第二部で無人の家屋の朽ちていくさまに費やされた描写の素晴らしさとかに接して、心底そう願う)。

クロード・シモン『歴史』

歴史

歴史

 のっけから長めの引用――

(…)まるでベッドとシーツと彼らの肉体が一様に同じひとつの生気のない物質でできているかのようでありなかば裸でむきだしというよりむしろすべてを奪われた感じでいわば双頭の孤独のなかにおり、外見はまだまったく傷つきもそこなわれもしていないようなのに実はものすごい速度で分解しはじめておりまるで大理石にも似たその灰色のみがきあげられた表面の下で目に見えないしかし貪欲なうようよとうごめくものが自分たちの仕事に熱中しているかのようでありしたがって徐々に彼らはむなしい外皮を残すだけになりますます薄っぺらなものになっていく華奢な殼だけになり、ついにはどこかがあまりにも薄くなりすぎて破れてしまいぼろぼろになり虫に食われた木か中空の石膏のようにかすかな音をたててくずれてしまうにちがいない――(…)
『歴史』(277頁)

 あるいはまた、道端に放置された死馬のこんな描写――

青光りする大きな黒いはえどもがそのまわり、つまり傷口というよりはむしろ穴、噴火口のようなものの縁に群がり、その縁の傷のはいった皮もボール紙みたいにそり返りはじめていて、手脚がかけたり割れたりしうつろにぽっかり口をあけた内側をのぞかせている子供の玩具を思わせ、もともとそれはなかに空虚しか収めていない形骸にすぎなかったとでもいうように、まるではえやうじむしどもがすでに彼らの仕事を終え、つまり骨も皮もふくめて、食べられるものをすべて食べつくしてしまったので、あとにはただ(…)
『フランドルへの道』(96頁)

 事物の内部でこやみなく進行する崩壊の過程、その崩壊の独自の感触として掴まれたおびただしい数の小さな虫のような群れの蠢動、その崩壊のあとに残される物の形骸。『歴史』は『フランドルへの道』の7年後に書かれた作品みたいだけど、崩壊という事態を描く作家の筆致は両者に同型の光景を招き寄せているように思う(しかしまた、引用したこの二つの文章には明確に違いがある。『歴史』におけるそれが、話者「ぼく」のすでに別れてしまった「彼女」(ナニーヌ)とのかつての同床の記憶にもとづく実存的(!?)な内部から掴まれた崩壊の感覚を晒すものだとすれば、『フランドルへの道』の(記憶が確かならば)三度(だっけ?)時間と眺められるアングルを微妙に変移させつつ繰り返される馬の死骸のその描写のくだりは、「崩壊」といういまこのエントリで手前勝手に抽象されている主題を抜きにして作品単体の中での説話的配置を素直に見れば、むしろ、『歴史』におけるあのオランダ人画家とモデルの女が写された一枚の写真を巡る「ぼく」のジクザグな記述の試み、あの「エクリチュール多重露光」的な時間とイメージ処理の質感をこそ読み手に伝えようとしているだろう)。
 この前『フランドルへの道』を読んでいたときにもちょっと不審に思っていたんだけど、クロード・シモンという作家は「崩壊」を語りつつも、しかしではいったいこのことばの能産性、あまりにも多産なこのありさまはなんなんだ、とずっと疑問に感じていた。ひとつのイメージが別のイメージを呼び、諸感覚は輻輳し、あるいは拡散し、飛び火し、語は語でそれらイメージや感覚や記憶を横ざまに糾合し縫い合わせていく、というその実践のさまはよくわかる。しかしそのことと主題とのあいだ(書きざまとその内容)に不可解な隔たりがあるとも感じていた。同時に、その書くことの能産性と崩壊の主題は切っても切れないものとして作家に掴まれているだろうという感じもある。まあ単なるヤマ勘というか直感として根拠の薄弱なまま言い切ってしまえば、たぶん、「はえやうじむし」みたいな崩壊や解体をもたらす無数の小さなものたちのうごめきとは、小説を形づくる語であり、語の連なりからなる文であり、この際さらにDQNなことを言ってしまえば、わたしたちすべてを泥の中からこの世界に立ち上がらせることにもなるあのおびただしい精虫や卵子の群れの胎動とまったく同じものとして作家に直観されているのではないか?

(…)女はレース布で包んだ真白な肌の神秘な上体を前に傾けているのだがその胸はひょっとしたらもうぼくをその真暗な聖櫃のなかに宿していたのかもしれない 背中をまるめてうずくまり馬鹿でかい目を二つもち頭は蚕のようで口には歯がなく額はまだ虫みたいな軟骨状でようするにぬるぬるするおたまじゃくしのようなもの、それがぼくだったのだろうか?
『歴史』310頁

 決定的な崩壊のあとにまったく新たな何かがそれを契機に生起する(『AKIRA』的な?通俗弁証法的な?)のではないし、あるいは崩壊のあとの人っ子一人いなくなった瓦礫のなかにある日一羽の小鳥が「プーティーウィッ?」とおしゃべりを開始するのでもないし(ヴォネガット!)、ましてや核戦争による全面崩壊に怯えながら神経症的な不定愁訴(ないし柔らかな恫喝)のことばが繰り述べられるのでもなく(安部公房?大江!)、そこでクロード・シモンの小説のことばたちは崩壊と胎動とが完璧に同じもの、裏腹な関係であるとか交互に条件づけあい継起するとかいう留保の論理抜きに、それがまったく同じものの別様のアフェクションであることを示そうとしているように思う。

マルグリット・デュラス『ロル・V・シュタインの歓喜』

ロル・V・シュタインの歓喜

ロル・V・シュタインの歓喜

 この小説は難しかった。おおむね解説の平岡篤頼の意見に同意する。でもそれだけじゃなんだから、言いっぱなし気味になんか書いておく(言いっぱなす場合は100パーよく判っていない)。

 ロル・V・シュタインが彼女の友人の女性(タチアナ)とその愛人(ジャック・ホールド)との情交の場面を覗いていることをあらかじめ男に了解させたうえで二人の密会の現場に視線を差し向けるとき、その三角関係はロルの狂気の発端となったそれ以前の最初の三角関係(ロルと彼女の婚約者だったマイケル・リチャードソン、そしてアンヌ=マリ・ストレッテール夫人とで形づくられた十年前の舞踏会での出来事)を反復しようとするものだっただろうか? ロルの愛と狂気の原型ともなるこの最初の三角関係においては、彼女は終始徹底して受け身の姿勢を取らされ、婚約者と一人の女が一晩明かしてダンスを踊り続ける光景に物陰から視線を送ることだけしかできない(しかしそこに、踊り続ける二人への嫉妬はいっさいない。むしろ、排除と選別から構成される排中律の規則を超えてしまったそこにこそ、ロルは彼女の愛の核心を見出すことになるだろう。ロルの狂気はその後の展開――顕示されたその無差別的な愛の時間がマイケルとストレッテールたった二人だけからなる閉じた関係へとしぼんでしまい、自分の目の前から二人が永久に去っていってしまったことが明らかとなったそのときはじめて、彼女に固有の「狂気を狂わせる」ことになるだろう)。ロルが、彼女を愛することになる彼女の友人の愛人を仕向けて、彼女の目の前で(しかし二人からはロルを見ることの出来ない位置から)その二人の情交を眺めるとき、反復されたこの三角関係においては、かつて原型となる三角関係で強いられていた彼女の受動性が、状況を裏面から操作するという隠微なしかたで能動性へとわずかに軸をずらされている。ロルのポジションはそこで、原型の三角関係におけるロルの位置にもあり、同時に、一人の女(かつての自分)から男の愛を奪い去ったストレッテールの位置にもある。ロルでもありストレッテールでもあるこのロルは、かつてのようにロルとして愛の場から放逐されることもなく、ストレッテールとして愛の場を閉じてしまうのでもなく、今やロルでもストレッテールでもタチアナでもない、法外な何者かとしか言えない存在へと変成するだろう。その意味で、反復は未知の領野を反復させる。おわり。