柄谷行人『日本精神分析』
- 作者: 柄谷行人
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/06/08
- メディア: 文庫
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『ドゥルーズ・映画・フーコー』の丹生谷貴志はその中のいくつかの文章で(映画としての世界における)「絶対的な分身」と(演劇としての世界における)「相対的な分身」という概念を提示している。簡略して乱暴に言ってしまえば、そこにおける「分身」とは俳優にとってのある役柄にあたるもので、その役を演じる俳優(「分身」に対する本体)との分離可能性の有無が「分身」それじたいの相対性と絶対性との弁別を要請している(演劇の舞台の上でマクベスを演じる俳優が意識的にも現実的にもマクベスという役柄からつねに分離=乖離可能であることに対して、スクリーンに映るイーストウッドの演ずるハリー・キャラハンはハリー・キャラハンという「分身」から決して身を引き剥がすことができない。スクリーン上の「分身」キャラハンは「本体」イーストウッドには決して還元されることはない)。演劇としての世界における俳優(的身分)には、自身と「分身」との関係において真の自己(本体)へと向けてみずからの解放や自由意志を夢見ることが可能であるけれど、映画としての世界における存在にはそもそもそのような(「分身」からの脱出というような)疎外論的な発想をすることじたいの可能性があらかじめ、無い。丹生谷貴志の思考は、「相対的な分身」においてはじめて発想可能なこの自由と運命論というような対立関係の裏面で、「今ここに現にある」その「絶対的な分身」を巡って繰り延べられていく(ここで言われている「俳優」とは念押しするまでもなく、演劇とか映画にまつわる論考の直接的な主題が仮に要請している語彙であって、無論わたしたちの生の様態そのものを対象にしている)。
柄谷行人のこの本の諸論考は丹生谷的文脈に沿わせてみれば、演劇的世界と「相対的な分身」を巡って(標的にして)展開されているように思う(……と言って、別に柄谷のその著書での考察の価値が減ずるわけじゃない。この手の運動にもコミュニズムにもまったく無縁な自分があれこれ言える資格はないし、柄谷行人という人に対してひとかけらも、何らの恩讐も感じていないし、利害関係にあるわけでもない、そのような立場から読んで、率直に、彼の言説のずば抜けた鋭敏さには今更ながらあらためて、何度でも驚嘆するだけだ)。「相対的な分身」といって語弊があるなら、それをもじって、演劇としての世界における「相対的な本体(主体)」の問題と言ってもいいかもしれない。当然のことながら、柄谷行人には「分身」を廃絶して「絶対的な本体」(自由)の場所へといたることが可能であるとするような長閑な発想は皆無だけれど、そこにおける代表制の場における「無記名投票とくじ引き」のシステムの導入なり「市民通貨」なりの議論には、主体に不可避なもろもろのパトローギッシュな感性的偏向(理性=自由の対立物)を充分に見積もった上で、しかしなお、自分たちの行動によって世界を変革しうるという理念にもとづく社会的実践の可能性が強固に信じられている。柄谷氏は、《アソシエーショニズムによる資本制=ネーション=ステートの揚棄は、近いうちに実現されるどころか、何世紀もかかる運動》(226頁)だという厳しい事実を怖れずに自覚し明言しているけれど、おそらくそのような認識は事実認識として厳正すぎるほどに厳正であるだけに、柄谷氏の姿をある種の厳格な預言者のそれと見分けがたいまでに酷似させるだろう(丹生谷貴志はどこかで「最近の柄谷行人はユダヤ的ニヒリズムに近づいているのではないか?」みたいなコメントを口にしてたけど、その真意はおそらく、以上の意味においてなのではないか? その成果が「何世紀」か後にようやく結実するような運動とは、現存する参加者全員にとって、彼らの死後に到来するメシヤ的な希望以外の何ものとして観念されていただろうか?)。あるいは直後に、柄谷氏はこう書く。《(アソシエーショニズムの運動は)漸進的に実現するほかない。にもかかわらず、これは、部分的には、今すぐにここで、実現できるものでもあるのです。》。丹生谷的な「絶対的な分身」と柄谷的な「相対的な本体」とはここでも交差する。「今ここに現にある」あるいは「今ここで現になりつつある」丹生谷的な「絶対的な分身」の様態として「老い」のような内在的な進行過程(そこでは能動と受動、主体と客体、暴力と受苦とかいった相補的な分割を形づくることができない)は、端的に、否定も肯定も関係の無い場所でそのように生きられるしかやりようがない。他方で柄谷氏の言う「今すぐにここで、実現できるもの」とは、実存的な賭けのもつ切実さのようにして、それが「実現」されない局面につねに可能的に脅かされているだろう。そこに人間的な倫理があり、しかしたぶん、同時に、ニヒリズムが充分に培養される余地も生じている。
勝手な比較をした上で言えば、資質的に自分は圧倒的に丹生谷貴志の文章に説得されるんだけど、しかし柄谷行人がここで何か間違ったことを言っているようには到底思えない。ただおそらく、実践を領導することを謳う理論そのものに(間違った/正しいとかの別なく)一般的な不可避の行程というものがあって、そこに躓く。
丹生谷貴志『ドゥルーズ・映画・フーコー』
- 作者: 丹生谷貴志
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2007/05/01
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クロード・シモン『ファルサロスの戦い』
- 作者: クロードシモン,Claude Simon,菅野昭正
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2001/10
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*1:それをたとえば、ゼノン(=超自我)から発せられた禁止を命ずる威嚇の声を内面化した神経症者アキレスの、その発症の過程の論理学的サンプルのようなものとしても解釈することができるかもしれない。無茶かもしれない。
*2:時間処理の巧みな作家として、最近ちょぼちょぼ読んでいるヴァージニア・ウルフを思い出す。簡略して図式的に描けば、『ダロウェイ夫人』の説話においては事態はおおむねこんな具合に進む。『彼女は家を出て葉書を出しにポストへむかった→(心内語/モノローグ)→そこで彼女は目の前にポストを見出した→(再び心内語)→……』ヴァージニア・ウルフの最期が自殺だったという事実を知らなかったとしても、精神錯乱に陥った一人物の投身自殺がトピックとして扱われるこの小説の上記の説話に危機的な徴候が兆していることは即座に察知される。この説話の流れの中で、たとえば心内語によるモノローグにあたる箇所が事物(ポスト)に出くわすことなく延々と続いた場合の空虚の混入、あるいは、ポストをひとたび見出した人物が、しかしモノローグを介して再び、何度でも繰り返してポストをしか見出せない場合の不純物としての事物の出没を考えてみればよいと思う。「意識の流れ」の実践例として穏当に読まれているこの叙法の裏面に、怪物じみた経験の出来する可能性がぴったりと貼りついているさまが読み取れるのではないか? 事物とはクロード・シモンのこの作品において「アキレス」に対する「亀」にあたるものと見てよいし、上記「不純物としての事物の出没」の様相は『ファルサロスの戦い』で欠伸を催すほど反復される対物描写の、原型的な最小単位を構成しているものと見ることも可能かもしれない(思いつき)。
マルグリット・デュラス『愛』
- 作者: マルグリットデュラス,Marguerite Duras,田中倫郎
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1996/04
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女が『ロル・V・シュタインの歓喜』とのあいだに絶対的な(還元不可能な)差異としてある生(/死)の過程を刻みつけていたとするならば、舞台となるS.タラという名の土地もまた前作『ロル・V』とはまったく異なる姿を浮上させており、おそらくこの作品におけるデュラスの試みの大きな力点として、このS.タラの風景を更新させる心積もりがあったに違いないと思われる。海があり砂浜があって、そこに吹く風が男たちと女をなぶるように流れてゆき、背後には密集した家々が廃墟の数々のようにひかえ絶えず腐蝕の音を軋ませており、そこで女はあてどなく徘徊しつつ、不意に場所を問わず眠りこけ、そして静かに錯乱していき、男はいかなる動機もかいたまま夜を日に継いで火災の炎を放ってまわり、黒い煙があちこちで立ちのぼる中、サイレンの音はいたるところで響き渡る。夜が明けて朝の光が溢れ、九月の昼の光線は眠る女のまぶたを容赦なく打ち、やがてそれもしだいに弱まって、夕方の柔らかい光へ、再び夜の闇へとすべては沈んでいく。しかしそこで、S.タラの自然の時間のサイクルは人間のもろもろの営みを励ましたり妨げたりすることはほとんどない。それはそれそのものとして、人間の営為とはまったく関係を持たずに流れていく。S.タラの歴史の時間はそこでは完全に腐蝕し停止してしまっているように見える。
『愛』という作品の中で何が起こっているのか、まったく理解できないけれど、まあそれはとても怖ろしいことだとは言える。繰り返す。怖ろしい。
ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』
- 作者: ヴァージニアウルフ,Virginia Woolf,御輿哲也
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2004/12/16
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ラムジー夫妻という一組の父母の綾なすエディプス的な(モロにヴィクトリア朝時代的な)家政の権力を巡るドラマを中心に、彼らの子どもたちが父と母の形づくった(広い意味での)「約束」みたいなものをいかに果たすことになるのか――、という理解で正しいのだろうか? ……その場合「約束」というのは、狭い意味で明示的には、それに関する母親ラムジー夫人の六歳になる息子ジェイムズへの根拠のない(しかし我が子への愛情と慈しみには溢れた)言質としてある作品冒頭のセリフ(「そう、もちろんよ、もし明日が晴れだったらばね」)によって託されている、翌日の灯台へのピクニックの予定として書きつけられているものだけれど、他方これに比べていくぶんかは見えづらいいまひとつの「約束」として、父親ラムジー氏が、母親のもたらしたその優しげなことばを言下に否定する現実的で厳格な発言(「晴れにはならんだろう」)として象徴的に表現されている、「去勢」の効果の実現としても読み取ることができるのだろう。ラムジー夫妻とその子どもたち――人生の日程が夫妻の影響で大きく左右されるという意味で、そこに幾人かの夫妻の若い友人たちを含めて――が、一篇を通じて交互に交換しあう認識や追憶や感情の形づくるモノローグたちのリレーがその「約束」によって結実しようとするところを描いているようにも思う。
たとえばこの前読んだ『ダロウェイ夫人』には「歩くことと生きることとの合流」みたいな主題を読むことができた気がしたんだけれど、この作品における去勢の主題は、その歩行を可能にする身体的な部位として人物たちの足(的なもの)への注視を促しているような気もする(それもこれも、積み重ねた仮定が正しかったらのはなしだけど)。
作品第一部で描かれる、母親の傍らに寄り添う幼い息子の足を木の枝でくすぐるという父親のなにげない所作は、それから十年後の一家の姿を描く第三部の彼(ジェイムズ)によって、それが神話的な怪鳥の「冷たく堅いかぎ爪くちばしを使って何度も何度も」(357頁)繰り返される襲撃として観念されていたさまが鋭い殺意をともなって想い起こされることになるし、あるいはまた見やすいところで、誰かれかまわず無垢な足を轢き潰してまわる荷馬車の車輪というジェイムズの抱く隠蔽記憶めいた幻想(359頁)は、そこに去勢脅迫者としての父親の姿を明確に認めることになるだろう。「立派な靴の宿る聖なる島」(296頁)と揶揄もされ、しきりに「さっさと歩くんだ」(314頁)などと子どもらを号令するラムジー氏の姿からはやはり、足に向かって威嚇する去勢者という像がイメージされるように思う。一方でまた母親ラムジー夫人は、『ダロウェイ夫人』におけるあの「はさみ」だとか時計の「長短針」のような、二つで一組のシルエットを形づくる(いわば)生の護符に照応するものとして、ここでは二本の「編み棒」を握りつづけながら「靴下」を編む姿を読み手のイメージの中に強く刻み込むことになる。
そのような文脈で、ラムジー家において契られた「約束」は、高く張られ風で大きく膨らんだ船の帆の下で充分見事に操舵し「灯台へ」の航海を成功させたジェイムズによって、確かにそこで果たされた、と見ることもできるのだろう。船の帆であり、灯台であり、あるいは素人画家リリー・ブリスコウのふるった絵筆によって「キャンバスのちょうど真ん中に」(406頁)引かれた一本の線でもあり、おそらく誰かの足でもあるものとは、端的に、ファルスと呼ばれて然るべきものではなかったか?
しかしそこがまたこの小説の評価の微妙なところで、以上のこの妄想じみた見方が正しかったならば、これは作品としてちょっと厳しいと思う(……このような退屈な読み方が決定的に間違ったものであって欲しいと思う。第二部で無人の家屋の朽ちていくさまに費やされた描写の素晴らしさとかに接して、心底そう願う)。
クロード・シモン『歴史』
- 作者: クロード・シモン,岩崎力
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2003/10
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(…)まるでベッドとシーツと彼らの肉体が一様に同じひとつの生気のない物質でできているかのようでありなかば裸でむきだしというよりむしろすべてを奪われた感じでいわば双頭の孤独のなかにおり、外見はまだまったく傷つきもそこなわれもしていないようなのに実はものすごい速度で分解しはじめておりまるで大理石にも似たその灰色のみがきあげられた表面の下で目に見えないしかし貪欲なうようよとうごめくものが自分たちの仕事に熱中しているかのようでありしたがって徐々に彼らはむなしい外皮を残すだけになりますます薄っぺらなものになっていく華奢な殼だけになり、ついにはどこかがあまりにも薄くなりすぎて破れてしまいぼろぼろになり虫に食われた木か中空の石膏のようにかすかな音をたててくずれてしまうにちがいない――(…)
『歴史』(277頁)
あるいはまた、道端に放置された死馬のこんな描写――
青光りする大きな黒いはえどもがそのまわり、つまり傷口というよりはむしろ穴、噴火口のようなものの縁に群がり、その縁の傷のはいった皮もボール紙みたいにそり返りはじめていて、手脚がかけたり割れたりしうつろにぽっかり口をあけた内側をのぞかせている子供の玩具を思わせ、もともとそれはなかに空虚しか収めていない形骸にすぎなかったとでもいうように、まるではえやうじむしどもがすでに彼らの仕事を終え、つまり骨も皮もふくめて、食べられるものをすべて食べつくしてしまったので、あとにはただ(…)
『フランドルへの道』(96頁)
事物の内部でこやみなく進行する崩壊の過程、その崩壊の独自の感触として掴まれたおびただしい数の小さな虫のような群れの蠢動、その崩壊のあとに残される物の形骸。『歴史』は『フランドルへの道』の7年後に書かれた作品みたいだけど、崩壊という事態を描く作家の筆致は両者に同型の光景を招き寄せているように思う(しかしまた、引用したこの二つの文章には明確に違いがある。『歴史』におけるそれが、話者「ぼく」のすでに別れてしまった「彼女」(ナニーヌ)とのかつての同床の記憶にもとづく実存的(!?)な内部から掴まれた崩壊の感覚を晒すものだとすれば、『フランドルへの道』の(記憶が確かならば)三度(だっけ?)時間と眺められるアングルを微妙に変移させつつ繰り返される馬の死骸のその描写のくだりは、「崩壊」といういまこのエントリで手前勝手に抽象されている主題を抜きにして作品単体の中での説話的配置を素直に見れば、むしろ、『歴史』におけるあのオランダ人画家とモデルの女が写された一枚の写真を巡る「ぼく」のジクザグな記述の試み、あの「エクリチュールの多重露光」的な時間とイメージ処理の質感をこそ読み手に伝えようとしているだろう)。
この前『フランドルへの道』を読んでいたときにもちょっと不審に思っていたんだけど、クロード・シモンという作家は「崩壊」を語りつつも、しかしではいったいこのことばの能産性、あまりにも多産なこのありさまはなんなんだ、とずっと疑問に感じていた。ひとつのイメージが別のイメージを呼び、諸感覚は輻輳し、あるいは拡散し、飛び火し、語は語でそれらイメージや感覚や記憶を横ざまに糾合し縫い合わせていく、というその実践のさまはよくわかる。しかしそのことと主題とのあいだ(書きざまとその内容)に不可解な隔たりがあるとも感じていた。同時に、その書くことの能産性と崩壊の主題は切っても切れないものとして作家に掴まれているだろうという感じもある。まあ単なるヤマ勘というか直感として根拠の薄弱なまま言い切ってしまえば、たぶん、「はえやうじむし」みたいな崩壊や解体をもたらす無数の小さなものたちのうごめきとは、小説を形づくる語であり、語の連なりからなる文であり、この際さらにDQNなことを言ってしまえば、わたしたちすべてを泥の中からこの世界に立ち上がらせることにもなるあのおびただしい精虫や卵子の群れの胎動とまったく同じものとして作家に直観されているのではないか?
(…)女はレース布で包んだ真白な肌の神秘な上体を前に傾けているのだがその胸はひょっとしたらもうぼくをその真暗な聖櫃のなかに宿していたのかもしれない 背中をまるめてうずくまり馬鹿でかい目を二つもち頭は蚕のようで口には歯がなく額はまだ虫みたいな軟骨状でようするにぬるぬるするおたまじゃくしのようなもの、それがぼくだったのだろうか?
『歴史』310頁
決定的な崩壊のあとにまったく新たな何かがそれを契機に生起する(『AKIRA』的な?通俗弁証法的な?)のではないし、あるいは崩壊のあとの人っ子一人いなくなった瓦礫のなかにある日一羽の小鳥が「プーティーウィッ?」とおしゃべりを開始するのでもないし(ヴォネガット!)、ましてや核戦争による全面崩壊に怯えながら神経症的な不定愁訴(ないし柔らかな恫喝)のことばが繰り述べられるのでもなく(安部公房?大江!)、そこでクロード・シモンの小説のことばたちは崩壊と胎動とが完璧に同じもの、裏腹な関係であるとか交互に条件づけあい継起するとかいう留保の論理抜きに、それがまったく同じものの別様のアフェクションであることを示そうとしているように思う。
マルグリット・デュラス『ロル・V・シュタインの歓喜』
- 作者: マルグリットデュラス,Marguerite Duras,平岡篤頼
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1997/02
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ロル・V・シュタインが彼女の友人の女性(タチアナ)とその愛人(ジャック・ホールド)との情交の場面を覗いていることをあらかじめ男に了解させたうえで二人の密会の現場に視線を差し向けるとき、その三角関係はロルの狂気の発端となったそれ以前の最初の三角関係(ロルと彼女の婚約者だったマイケル・リチャードソン、そしてアンヌ=マリ・ストレッテール夫人とで形づくられた十年前の舞踏会での出来事)を反復しようとするものだっただろうか? ロルの愛と狂気の原型ともなるこの最初の三角関係においては、彼女は終始徹底して受け身の姿勢を取らされ、婚約者と一人の女が一晩明かしてダンスを踊り続ける光景に物陰から視線を送ることだけしかできない(しかしそこに、踊り続ける二人への嫉妬はいっさいない。むしろ、排除と選別から構成される排中律の規則を超えてしまったそこにこそ、ロルは彼女の愛の核心を見出すことになるだろう。ロルの狂気はその後の展開――顕示されたその無差別的な愛の時間がマイケルとストレッテールたった二人だけからなる閉じた関係へとしぼんでしまい、自分の目の前から二人が永久に去っていってしまったことが明らかとなったそのときはじめて、彼女に固有の「狂気を狂わせる」ことになるだろう)。ロルが、彼女を愛することになる彼女の友人の愛人を仕向けて、彼女の目の前で(しかし二人からはロルを見ることの出来ない位置から)その二人の情交を眺めるとき、反復されたこの三角関係においては、かつて原型となる三角関係で強いられていた彼女の受動性が、状況を裏面から操作するという隠微なしかたで能動性へとわずかに軸をずらされている。ロルのポジションはそこで、原型の三角関係におけるロルの位置にもあり、同時に、一人の女(かつての自分)から男の愛を奪い去ったストレッテールの位置にもある。ロルでもありストレッテールでもあるこのロルは、かつてのようにロルとして愛の場から放逐されることもなく、ストレッテールとして愛の場を閉じてしまうのでもなく、今やロルでもストレッテールでもタチアナでもない、法外な何者かとしか言えない存在へと変成するだろう。その意味で、反復は未知の領野を反復させる。おわり。