ヴァージニア・ウルフ『波』

波 (ヴァージニア・ウルフコレクション)

波 (ヴァージニア・ウルフコレクション)

 ここでは6人の男女の吐露するモノローグの連鎖と交錯からだけで、幼年時代から老境へと至る彼らの人生がどのような軌跡を刻んだかが(彼らが何を欲望し、祈念し、その結果何をなしえ、何を掴み取り、あるいは何に決定的に躓き、ついに何がその生に残ったのかが)描かれている(推移する人生の時間にそって区分されたそれら諸モノローグのブロックの合間に、これを架橋する、浜辺に打ち寄せる波の或る一日の様子を叙述する散文詩っぽいパートが挟まれている。『灯台へ』の放置されて朽ちていく無人ラムジー邸の描写のくだりにも似て、この断続するパートに読まれる一連の描写も身震いするほど素晴らしい)。モノローグの交換(あるいはしばしば、交換=交歓のし損ね)だけで一篇のけっして短いとは言えない作品を形作り、しかも単調さの印象なんかとは程遠い融通無碍な文彩でそれを支えきって、なおかつ作家の初発の目論みをついに充全に表現しえているという意味で、ここには控え目に言っても傑作という評価に相応しい達成が示されているだろう(「傑作」とかいう空っぽで抽象的な評語からはもっとも遠い場所であられもなく、それこそ無限に寄せては返す波の運動のようにウルフのことばは繰り述べられていくわけだけど、しかしじゃあそれをほかに何と言えばよいのかと考えると、にわかにことばを失ってしまう)。幼年期の思い出を分かち合う6人の人物たちがその後の道行きのめいめい固有の生において掴み取ったもの(取りこぼしたもの)が何だったのかは、これを手短に要約することなどは到底できない。人が50年なり60年なりの時間的持続の内部で生きる(生き続ける)ということの、その短くはない持続に本質的な屈曲や切断、見通しのけっして立たない晦冥さの幕のようなものがそこには終始たゆたっていて、ヴァージニア・ウルフの『波』という作品のことばのいっさいはその不可入な生の暗さの中で溺れながら泳ぎ続ける人たちの不様な(しかし、むろん、切実さには欠けていない)姿をこそ描こうとしていたのだろう(だとすればなおさら簡明な要約など許されないだろう。ウルフの筆の運びはそこに、6人の生の、複雑に絡み合い、またすれ違わざるをえなかった図柄を描いて、人生の時間の粗筋を鳥瞰的に書くことの無意味さや不可能さをこそ告げているように思う)。ここでは海の波のはらむ反復する膨脹と収縮の運動に翻弄されて波間に束の間輝く「魚のヒレ」のようなものとしての人の生と死が一挙に掴まれている。ウルフの筆致の技巧はモノローグする人物たちのその個別性(単独性)を見事に描きわけてみせているけれど、個別にさまざま課されるその戦い――戦い、誤解を恐れずあえて言ってしまえば、これはやっぱり、一人の人間に固有の身体と精神というもっとも身近で親密な場所で、しかしただ一人の救援もなく、もっとも寄る辺なく戦われる内在性と受動性の根底で交わされる戦いだったろう――そのもろもろのウルフ的戦いが、別々の戦端を切り開き別々の戦線を駆けずり回りながらも、終極的には同じひとつの戦いを巡る無数の戦局であったことをことばの力によって浮かび上がらせてもいるだろう。人の生にとって本質的に内在的で根底からの受動を強いるその衝迫をたとえばここで死(への雪崩れ)とかと名付けてしまうことは簡単だし、このようなありがちな主題を巡って適当にことばを書き連ねていくこともまた(ごく通俗的なレベルで言えば)たやすいことだろうけど、そのような(ある種手垢に塗れてしまった題材を巡る)仕事が、しかしこういうきわめて高い水準で圧倒的な筆のもとに追い詰められていくそのプロセスの逐一を見届けるということは、また格別の、ちょっと他では経験しがたい緊張を読む者に強いることであるようにも感じる。いろんな意味で破格の作品。

アルフレッド・ベスター『ゴーレム100』

ゴーレム 100 (未来の文学)

ゴーレム 100 (未来の文学)

 アルフレッド・ベスターの作品はSFにはまっていた学生だった頃に読んで以来(『虎よ、虎よ!』と『分解された男』を読んだ筈だけど、情けないことにすっかり記憶から消え失せてしまってる。だからあの当時の自称「SF者」だった自分は、単にはしかに罹っていたようなものだったんだろうと今にして思う。当時いくばくか摂取した筈のSF成分みたいなものが現在の自分にほとんど残っていないのがこれまた情けない)。
 22世紀の都市世界(「ガフ」)の猥雑な雰囲気だとかそこで繰り広げられる探偵劇の筋立てからは、やはりその昔読んだブーダイーン世界を思い起こしたりした。
 8人の女たち(「蜜蜂レディ」)の欲望が呼び出した集合的無意識の悪魔が召喚者の制御を超えた領域で暴走を開始するというような作品の骨子はフランケンシュタインの物語をたやすく想起させる(……という事実は作中人物によってすでに自覚されている)。そうは言いつつ、恥ずかしながらフランケンシュタインのお話は読んでいないんで確かなことは何も言えないんだけど、ポーの怪奇ものの短編のいくつかで繰り返されるモチーフ、「殺されてその死を隠蔽された者の遺体や幽霊が殺害者の目の前に回帰して最終的に彼を破滅に追いやる」というような古典的なフォーマットがジャンルとしてのホラーの基礎にはあるだろう。この作品でゴーレム100と名付けられているイドの怪物の繰り返されるガフへの現前(襲撃)は、舞台となるその世界を解体の危機に晒しつつも最終的にそこにまったく新たな別の世界の再創造が賭けられているという点で、ジャンルとしての(ホラーとはまた異なる)SFの多幸症的な一典型をここにも見ることが出来るかもしれない(「多幸症的」とは言ってもなにもユートピアみたいな別天地ののどかな幸福感なんかとはまったく無縁で、ここでは人はバンバン酷い殺され方で死んでいくし主要な登場人物の死があっけなく一行で片付けられたりするしで、ベスターの昂ぶった筆致やタイポグラフィカルな遊びの氾濫にまで乗り移ったそれは、祭りの前のやみがたい躁状態にも似たものだろう)。その意味で、夢の言語を思わせる意味の圧縮された「ガフ語」の創造だとか無意識の光景を延々数ページにわたってグラフィック化してみせたりとかで鬼面人を嚇かす仕掛けに満ち溢れたけれんみたっぷりの作品ではあるけど、まあとても真っ当なSF小説だと思う。傑作とか一大奇書とかいう評価はさすがに言い過ぎのように思う。

マルグリット・デュラス『ヴィオルヌの犯罪』

ヴィオルヌの犯罪 (河出文庫)

ヴィオルヌの犯罪 (河出文庫)

(……)そこでわたしは、台所の窓を開けて、誰かが聞きつけてわたしを追っ払いに来るように皿を割るんです。ところが突然目の前に彼女が現れて風通しをさえぎり、わたしが皿を割るのを眺めて、微笑を浮かべ、ピエールのところへ知らせに走って行くんです。どんなことでも、彼女はピエールに知らせてたんです。そしてピエールがやって来ると、さあ、庭へ行きなさい、なんです。

そうしてしまいに、わたしは庭が好きになっちゃったんです。

 二十年以上にもわたって同居してきた聾唖者の従姉妹を殺害し、遺体をバラバラに切断したうえ陸橋から鉄道の貨車に遺棄した女(クレール・ランヌ)への事件発覚後の聴取と一件の間近にあった幾人かの人物たちへの聴聞の始終を三章立ての対話劇として描いた小説(フランスで現実に起こった事件をモデルに取材したものだとのこと。邦訳のタイトルにある「ヴィオルヌ」とは事件の舞台となる村の名)。
 娘時代の過去の激しい恋愛のすえに致命的な、取り返しのつかない躓きを経験してしまったことによって以後の生を狂気の不穏な兆しのなかで生きる女として、クレール・ランヌという人物は作家に固有の類型的な造形において、『モデラート・カンタービレ』の主人公アンヌやロル・V・シュタイン夫人といったデュラスのそれまで描いてきた女たちの後身として読まれることが可能だろう(67年発表のこの作品に続く71年の『愛』において、女は、もはや名前も失ってしまった何者かとしてすでにある種の囲い込み施設へと緩やかに拘束されてしまった存在として現れる)。クレールという女の存在があのアンヌやロルのその後の姿を写すものとして了解することが可能だとしても、むろんそこには、クレールがアンヌやロルからさらに遠く隔たって(彼女たちとはまた別の)切断線を再び一歩、大きく踏み越えてしまった光景が読まれることになる。バーでの対話相手となる男をみずからの死の積極的な協力者として誘惑し馴致しながらついにそれに失敗したアンヌとの対比が見やすい対照を形作っているとおり、『ヴィオルヌの犯罪』におけるクレール・ランヌの狂気はここで他者の殺害という攻撃的性格を持つものとして誤作動し、アンヌやロル・V・シュタインが取り憑かれた狂気とは際立った差異を示しているかのように見える。
 クレールの手にかかりランヌ夫妻の自宅の地下室で殺害された被害者女性マリー=テレーズ・ブスケは、その建前上の立場は食客めいたランヌ家のお手伝いに過ぎなかったとはいうものの、聾唖でありながらランヌ家の家政一切の実質を切り盛りする「女王」のような存在でもあった事実が訊問の言葉の中で告げられる。小説の言葉が開始される以前にすでに死んでしまっているこの女性の姿は直接的には作品に現れることはないにもかかわらず、インタビュイーたちの証言の中で語られる、その体重にして100キロは下らなかったという極度の肥満体が、読み手の意識に対し不可解なまでに強く印象づけられることになるだろう。じっさい、殺害後にマリー=テレーズの切断遺体を陸橋にまで運ぶクレールは、9回にもわたってその重荷を担いで夜中のヴィオルヌを歩かねばならないはめになったこと告白している。マリー=テレーズを特徴づけるこの肥満体は、被尋問者たち(ことにクレール)にとってはある種の動物への連想と不可分離的に結びついているさまが彼らの言葉から読み取ることができる。彼女の後ろ姿が「小さな牛」のような印象とともに眺められていたという事実はピエールとクレール、ランヌ夫妻双方の供述の言葉に繰り返し読まれる。あるいは、マリー=テレーズ亡き後のウ゛ィオルヌの邸宅が、家政の監督者なきまま埃と脂に塗れ放題で放置されるしかないであろう事実を嘆いて、クレールはそのさまを「豚小屋」さながらであることを認める(それがあたかも「物置」のようなあり様であるのではないか?という、この場合しごく真っ当な尋問者の語彙を念入りに撤回してクレールが口にする「豚小屋」というかなり特殊な一語は、事態が、マリー=テレーズがそこに居なくなったことそれじたいに結果することによるのではなく、むしろそこが、まさに「小さな牛に似ている」豚のように肥えた女の住まう場所だった事実が彼女の不在の時間に否定しがたく明るみになったことをクレールに告げているだろう)。
 マリー=テレーズ・ブスケの体現するもう一つの(しかし彼女の肥満体質と密接に相関した)側面は、彼女がヴィオルヌの外国人(ポルトガル人たち)と結んでいた性的な関係の放縦さによってあからさまに周囲に告げる、その享楽的な水準にあるだろう。端的にそこで、マリー=テレーズという女は享楽の占有者(ヴィオルヌにおいて享楽をひそかに盗んでいる者)として、あたかも対象aの地位にあるかのように観念されている。クレールは語っている。

事件当夜、彼女が叫び声をあげ、わたしは、これじゃとても眠れないと思いました。アルフォンソが彼女といちゃつきにそのへんに来てるのではないかと思いました。(中略) わたしは降りて行きました。アルフォンソはいませんでした。[217頁]

 マリー=テレーズの極度の肥満がクレールの連想の内部で象徴的に形成するこれら動物性や卑猥さの印象は、だがしかし、それじたいとしては彼女の従姉妹殺しの動機を形作るものでは何らなかった点は充分に留意しておいたほうがよい。もう少しだけ小説の言葉を追いかけてみよう。

 マリー=テレーズの鈍重で自足した、ある種の家畜にも似た動物的な姿はまた、二十数年にわたって彼女が一手に引き受けてきたランヌ家の食事、ことにクレールの中で強い嫌悪の対象となっていた脂ぎった「ソース漬けの肉」の連想とも強く結びついており、この連想はまた、食事後の庭における嘔吐としてクレールにおいて身体的に表出される(この嘔吐は『モデラート・カンタービレ』のアンヌを襲ったあの内容物を持たない、止むことのない吐き気にまで系譜を遡ることができるだろう)。そして嘔吐の主題はおそらく、それが身体から無理矢理に引き剥がされるものであること、意味の内容を奪われた音声であること、二つの特性を介して、叫び声や呻き声、あるいはどことも知れない場所から漏れてくる不吉な「もの音」といった幻聴的な体験の主題群へとじかに接続していこうとする。クレールは語る。

それに地下室のことはなんの説明にもなりません。あれは、バラバラにする仕事を片づけるための、とてつもない力業だけだったんです。力業以外の何ものでもなかったんですが、死ぬ思いの、わめきたくなるような仕事でした。わたしは気を失ったに違いありません。[209頁]

 ここで叫び声を上げるよう不断に強いられている者は、厳密に、いったい誰なのであろうか? クレールなのか、殺されたマリー=テレーズなのか、それともまったく別の誰かなのか? 午前四時の「地下室」の暗がりは線分と測量可能性の明確な境界線を決壊させヴィオルヌに溢れ出そうとしている。

わたしが夜分ヴィオルヌへ出て行ったのは、そこでいろんなことが起こって、それを確かめなきゃいけないと思ったからなんです。
方々の地下室で、撲られて半殺しの目に会ってる人たちがいると思ったんです。ある晩なんか、いたるところで火災*1が起こりかけましたけど、いいあんばいに雨が降ってきて、それを消してしまいました。
――誰が誰を撲ってたんです?
――警察がヴィオルヌの地下で、外国人か、ほかの人たちを撲ってたんです。そういう人たちは、明けがたになると、またどこかへ行っちゃいました。
――あなたはそれを見たんですか?
――いいえ。わたしが行くとすぐにおさまっちゃいました。
でも、わたしが勘違いしてたこともしょっちゅうで、ひっそりと静まりかえってもの音一つしないことも多かったんです。[213頁]

――頭が狂ってるなと自分で感じるんですか?
――ええ、夜中にそう感じるんです。いろんなもの音が聞こえるんです。人が撲られてるような気がしてくるんです。そう思うことがありました。[216頁]

 上記引用部からフロイトの有名な論文(「子どもが叩かれる」)を思い起こすことは、デュラスのテクストにおいて起こっている事柄の余りに切迫した内実に即して不当に慎ましやかさを欠く態度だろうか? 精神分析の知見にかんして精確なことは何も言えないことは承知の上で(しかし行き掛けの駄賃めかして)触れておけば、ともあれクレール・ランヌのこの言葉からは、そこで(地下室で)「警察」によって「撲られ」、不穏な「もの音」を聞き漏らしようなく、絶え間なく上げ続けているものが、ほかならぬクレール自身の精神と身体から響く軋みであったとしても、これはまったくおかしくはない、という事実を指摘できるだろう。

彼女は、聾唖者で、耳の聴こえない巨大な肉の塊でしたが、時にはその体から叫び声が出てくることがありました。あの叫び声は、喉じゃなく胸から出てくる声でした。[207頁]

 クレールのマリー=テレーズの姿を評する簡潔な言葉はここでおそらく、「叫び声」や「肉の塊」といった語をバネに、事態が、性愛の官能や拷問の苦痛、他者の享楽への憎悪や反動的で自罰的な衝動へと多方向的に伸びていっているさまを示唆しているかもしれない。それとはまた別にこの言葉は、地下室で起こった事柄の、その沈黙によって埋葬されてしまった叫びの特異な性格をも明らかにしようとするものとしても聴き取ることができる。そのような文脈において、被害者マリー=テレーズ・ブスケが極度の肥満体であったことのみならず、同時に彼女が聾唖者でもあったという作中の事実は大きな意味を持つのではないか。その「埋葬された叫び」とでもいうべき事態を語るクレールの言葉は、これまで別の文脈のために引用してきたいくつかの文の裏面にも見逃しようもなく、削り残されたシールの痕跡のようにしつこく貼り着いている。よってここでは、最後にもう一箇所だけ彼女の短い言葉を引用しておくことに留める。

(…)あの地下室で起こったことを彼らに知らせてやりたいわ。ほんの一分でも地下室にいたら、黙ってるようになり、この件について一言も言えなくなるでしょうよ。

 ……ここから、以上の読みの方向を、クレール・ランヌの「地下室」と「庭」という二つの特異な場所へと差し向けていくこともできるかもしれない。しかしそれは別の機会、別の課題として今は譲るとする。


――享楽を貪る者、屠殺される家畜にも似た獣、叫び声(-沈黙のうちに無かったものにされた-)、炎、誰のものでもない者の庭、地下室……。ともあれ(それがいまだ不可解なままであり続ける断片としてであれ)、少なくともこれだけのものは『ヴィオルヌの犯罪』を読む者の手の中に残る。

*1:前後の文脈をいっさい欠いてかなり唐突に口にされるこの「火災」の一語は、3年後の『愛』においてより明確に可視化され、さらに大掛かりな炎のもとに焚きつけられ煽られて、舞台となるS.タラの街に立ち上ることになる。

ロブ=グリエ『反復』

反復

反復

 投げっぱなしで駆け足の感想(というか、いつもながらの放言)。
 この小説の主人公は左利きだったという憶測を立ててみる。で、彼の双子の片割れにあたる男ヴァルター・フォン・ブリュッケは右利きだったと想定してみる。根拠はと問われたならば、まあいっちょ作品を読んでみてくださいとだけ答えておく(……たとえば主人公の上着のポケットからは折りにふれ拳銃だとか女物の靴だとかパスポートだとかいった物品が四次元ポケットさながらに湧き出るように現れるんだけど、それがいずれの場合も例外なく左側からであるという事実が前者にかんしてもっとも説得力のありそうな一点。かたやヴァルター・フォン・ブリュッケの吸う葉巻煙草の持ち手や女の股間を指でまさぐるその手が、これは明確に右手として記述されているという事実がもう一点。双方いずれの場合も、それが利き手と必ずしも一致するわけじゃないことは確かだとしても、まあべつだんそのような憶測をけっして許さないというわけでもないだろう)。つまり、だとすると、主人公である男と彼の闘争者である双子の兄とは、たんに類似を介した分身(相同性)の関係にあるだけではなくて鏡像的な(左右)非対称の関係においてそこに差異の罅割れをこそ浮き彫りにする。作中思わぬ拍子に、しかし印象的な場面でいくたびも響くことになる、『反復』という作品におけるあのガラスの割れる音とは、鏡像が不可避的にその鏡の対称性(写像と実像との想像的な同一性)を毀たれる契機を告げるものとして現れるようにも思う(その罅裂を時間性にそって展開するとキルケゴールのいわゆる「反復」とよく似た事態が現れるのだろう)。ところでこの小説は誤解のしようのないくらいに余りに露骨にオイディプスの物語が上に(/の下に)重ね書きされている(父殺しと母との近親相姦という物語論上の形式的な事態に加えて、クライン派の分析医は出てくるし、双子の兄弟どうしでエディプス・コンプレックスのなすり合い、みたいなたいへんなことになっててひじょうに面白い)。しかし読み進めていくと、最終的にそのオイディプスの物語は宙ぶらりんで落着どころのないまま霧散していってしまう。父ダニエル・フォン・ブリュッケを銃撃した犯人はついに明かされぬままになるし、息子が母親を寝取るとはいってもそこでの母とはあくまで戸籍の上でようやくそれと同定されるだけの形式的なカップリングの遊戯にすぎないものであるだろう(父の娶った年下の後妻との、その身分をしらぬままの偶発的な行きずりの性的関係などは、精神分析がその固有の力で要請するような必然的な欲望のありかたとはほとんど関係がないだろう)。双子の兄弟相互で相手の身振りに投影されるエディプス・コンプレックスとは、そこで起こった事件を物語として回収するために口寄せされた疑似餌にすぎないもので、小説がそのような通りのよい物語として滑らかに流通してしまいそうになる瞬間ごとに、作品は、読み手は、それが最初から最後まで物語ときわめてよく似た、しかし目を凝らすまでもなくその亀裂の痕跡が見逃しようのない明白さで縦横に走る、鏡面に写ったまったく別の何かであったことを執拗に警告されることになるんだろうと思う。

クロード・シモン『三枚つづきの絵』

三枚つづきの絵

三枚つづきの絵

 テクストの構成の全般的な解題にかんしては、いくつかの見逃すことのできない細かなディテールまでしっかりと押さえている平岡篤頼の解説が簡にして要を得ている。四つに断片化されたそれぞれの筋(パート)の進行をきちんと腑分けして再構成してくれており、かつ作品の勘どころであるそれらのパートの相互的なメタ言及の仕掛けまで分かりやすく指摘してくれている。ただしそこはまったくの難無しというわけじゃない。一つ疑問を挙げるとするなら、平岡さんの解説ではテクストのいわば数学的関係は充分に解明されているとしても、その力学的な関係のような場面への説得力に欠けてしまっているように思える。
 指摘のとおり、この作品の説話的な組成は四つの部面によって区切られている(区切られることによって相互の地平にはじめて浸潤しだすことが可能になっている)。平岡解釈にならってそれら四つの部面をそれぞれここでも、「豪華ホテル」、「谷間」、「煉瓦塀」、「サーカス」のパートとよんでおく(命名はそれぞれのパートにおける叙述の主な舞台に因っている)。前三者のパートの、めいめいそれじしんとは異なる残りの二者との関係は、ひとまずメタレベルとオブジェクトレベルとの一方通行的な「組み込み」の関係を形作っている。「谷間」のパートの仮設劇場でかかっている映画や納屋に貼られたポスター、二人の少年の隠し持つフィルムの断片は、「豪華ホテル」と「煉瓦塀」のパートで描かれることになる情景を現実のレベルから映画というフィクションのレベルに措定するものとして参照の対象となっている。同様に、「煉瓦塀」のパートで糠雨の中行われる若い男女のセックスの背景には、「豪華ホテル」のパートで演じられることになる中年俳優たちの映画撮影の挿話が、まさに今現在上映中の作品として二人の営みを鼓舞するかのように裏手の映画館から漏れ出る音声となって響き続けることになるし、当然のようにして映画館の扉の脇には「谷間」のパートで展開される「女中」の快楽と罪を主題にしたポルノまがいの悲劇映画のポスターが「次週上映」の予告を掲げつつ貼り出されている。高校生の息子の仕出かしたスキャンダラスな事件を揉み消すために大金を積み肉体まで差し出した美貌の男爵元夫人は、「豪華ホテル」の一室にしつらえられたベッドの上で寝乱れた放心のさなかにありながら、「煉瓦塀」の前で繰り広げられる男女の情事が描かれる読みさしの小説を終始手放そうとはしない。あるいはまた、同じ一室の続き部屋にあるテーブルの上で、相応の見返りを受け取り夫人に融通をはかったはずの中年男の完成させたジグソーパズルが「谷間」の風景を形作っているさまを、読み手はそこに確認することになる。
 それぞれのパートにおける叙述の現実性は残りのパート二者をフィクションのレベルに送り返しつつ、別の諸パートにおける叙述の現実性においてはフィクションのレベルへと送り返されながら、ボロメオの輪のような三幅対を書くこと=読むことの運動の中で形作っている。ここでは、生の現実は余剰物(ブルーフィルムさながらのメロドラマや通俗小説のようなぶっちゃけあってもなくてもよいもの。しかし、現にあってしまったもの)としてのフィクションを対象として所有し支配するけれど、同時にその現実の統合性が保たれるためにはフィクションの側から別の、いまひとつのフィクション(余剰物)それじたいとして所有され、見られ、読まれねばならないという、相互にメタレベルに食い込み合う事態が告げられているようにも思われる(その意味でメタとかネタと呼ばれるものとベタな現実との差異は、存在はするけどけっして明視し画定することはできない)。平岡篤頼の言うテクストの「組み込み」とはたとえばこのような垂直的な水平性の現れた事情を指しているんだろうと思う。しかしその指摘がちょっとスタティックな図式に見えてしまうのは、クロード・シモン『三枚つづきの絵』という作品の三枚の絵(「豪華ホテル」、「谷間」、「煉瓦塀」のパート)の「組み込み」の関係を丁寧にすくいあげてみせる一方で、ほかならぬ平岡さん自身も充分気付いていたはずだけど、「サーカス」のパート(員数外=四枚目の絵)の現前ぶりの不可解さ、特異さをほぼ手付かずのままスルーしてしまっているところにあると思う。
 「谷間」のパートで「女中」と「イタ公」がセックスに耽る納屋の壁板、そこに貼られたポスターの存在だけがかろうじて明示的に上述の「組み込み」の関係を指示する「サーカス」のパートの、道化師の演じる笑劇的な出し物を断続的に追った叙述は、それ以外のパートからの孤立が際立っている。むろんヌーヴォーロマンの作品らしく、そこには形態だとか色彩、運動やセリフとかいった言語やイメージを介した表層の横滑り的な換喩の(前後で隣接するパートの言葉との)響きあいがまったく見られないってわけでもないんだけれども、にしても、上述の三つのパートを結び付ける「組み込み」の例からの乖離がただごとではないことも確かだろう(くどいようだけど、平岡篤頼がこれを見逃していたはずはないと思う)。……三つのパートをそれぞれ頂点に見立てて三角形を作り、各点からちょうど等しい距離だけ隔たった点に「サーカス」のパートを据えてみると道化の動き回る活動圏(リング)に内接する幾何図形ができあがり、図形は「谷間」のパートで少年の一人がノートに描く図柄を紋中紋として相似形を形作っており(ry……ゴニョゴニョ。

 この作家の小説を読んだのはこれでまだ四作目だけど、以前の作品で類似の形象に出会った記憶はない。そこで読まれることになる道化の交換不能な躍動の、不吉で不埒なさまは、クロード・シモンのテクストの内部ではこれに未だに明確な名前を与えることができないもののようにも感じる。

デフォー『ロビンソン漂流記』

ロビンソン漂流記 (1951年) (新潮文庫〈第190〉)

ロビンソン漂流記 (1951年) (新潮文庫〈第190〉)

 『オデュッセイア』から漂流つながりで『ロビンソン漂流記』を読んでみた。
 トロイア戦争の英雄オデュッセウスが、オリュンポスの神々や土地の求婚者たちとの社会的関係においていわば「物財を持たない交易者」として漂泊していたとすれば、そもそもが(黒人奴隷の買い付けと販売という)あからさまに商人資本的な欲望に駆り立てられて航海に出たロビンソン・クルーソーは、そこで交換に失敗した交易者として無人島での幽閉生活を生きることになる。
 ロビンソン・クルーソーを襲う事態の顛末にはいくつかのアイロニカルな(と言って大袈裟なら、ちょっとお伽話的な)反転の諸契機があり、そこでは、交換に乗り出した者が致命的にそれを失敗し、しかしその結果、交換(交易)それじたいの意義がそこで失われたことがはじめて認知され、あるいは「諦念」の契機がもたらされ、ところへ事態はさらに裏返って、最終的には、交換の当初目指していた利潤が思いもよらない形でさらなる規模でもって交易者の手元に還流し、彼を再び交換の生きた社会的サイクルに送り返すことになる。たとえば無人島での生活においてロビンソン・クルーソーを悩ませるものとは、手仕事的な労働に役立つ生産手段(スコップとか鋤とか)だとかちょっとした余暇に費やされるための嗜好品や贅沢品のたぐい(パイプや酒とか)の欠乏や欠如だけではなくて、社会的(資本主義的)な交換が絶望的に途絶した状況で自給自足の生活を覚悟したときにはじめて意識されることになる、身の回りにさまざま溢れようとする過剰な物たちの氾濫にも似た事態でもあることがここで確認されることになるだろう(野鳥の群れや猫の繁殖がロビンソンのささやかな畑の作物に与えうる被害だとか、無人島にやってきた望まれない客人たちへのアンビヴァレンツな感情、人一人が一年間それを口にして生きていく上ではもはや過剰と見なされる穀物の収穫量の、その生産に割かれた労働力支出の無益さの認識、とか)。27年の無人島暮らしの中で、聖書読解と日々の神学修養により練り上げられたロビンソン・クルーソーの諦念は、欲望の分量カテゴリー(何を欲望するかってことではなく、それをどれだけ欲望するかってことを判断可能にするア・プリオリな形式)がつねにすでに社会的な欲望によって構成されていたことを発見する、いっこの超越論的批判に強いられて掴み取られたものであったろう*1(なんか大袈裟すぎる言い方だけど)。
 外的な偶然(事故)によって交換が停止したとき資本の内発的な増殖運動も停止する以外にない(諦念がもたらされる)。しかしまた、同様にアクシデンシャルな別のできごとがその場合は漂流者を島から救い出すとき、交換は諦念の強度に見合った莫大な差額を利潤として彼の懐の内に残す(つまるところプロテスタンティズムの倫理といってよいもの。よりよくおのれの致富衝動を懐柔しえた者が結果的により多くの富を得る、みたいな。金の斧と銀の斧のお話だとか舌切りすずめの童話の教訓)。そこでは諦念(欲望の限定的な断念)こそが、無限に更新される欲望の増殖過程のもっとも強固なドライヴたりうるという弁証法の秘密が明かされているだろう(まあ端的に「理性の狡知」と言ってよいもの)。その意味で、無人島に30年近くものあいだたった独りで閉じ込められてありながらこの孤独な王=虜囚――農耕者にして牧者、建築家、製パン業者、狩猟者、船乗り、あるいは教育者、宣教師――は、その間一度として資本主義の外へ出ることはなかったと言ってよいだろう。
 ロビンソン・クルーソーの諦念とは、運命の偶然性を受け入れることとその偶然性を合理的理性によって積極的に計算可能性の光のもとに引き入れることとの妥協的な折衷案として自家製神学を形づくっている。たとえば「悪いこと」として、「私は救出される望みもなく、この絶島に漂着した。」。それに対する「良いこと」として、「しかし私は生きていて、船の他の乗組員は全部溺死した。」。あるいはまた「悪いこと」、「私には、口を利いたり、私を慰めてくれたりする仲間が一人もいない。」。「良いこと」、「しかし神は船を海岸に非常に近く寄せて下さった。そのために私は多くの必需品を手に入れることができて、それで足りないときはそれを用いて不足を補い、一生暮らすのに困らない。」云々。現在の境遇にとって「悪いこと」と「良いこと」とを正確に把握し逐一分割しながら算定され、作成されていく、この運命の貸借表のたゆみのない確認作業は、なるほど、一身にして矛盾なく宗教者であり商人でもある者に相応しい所作であるだろう。主体であることとは、ともかくは取りあえず、そのような貸借表の作成者であることを意味するのだろう。

*1:という意味で、ロビンソン・クルーソーのこのカリブ海に浮かぶ無人島(曰く、「絶望の孤島」)は、いっこのまったきユートピアである事実は疑えない。社会的な存在としての人間はかつてそのような交換のない世界に生きたことは一度として無いし(と言うよりも、正確には、「無い」ものと信じられねばならないし)、同じ意味でそのようなユートピアは今後も、永久に、無いものと想定されねばならないだろう(本当のところは、「無いものという想定」じたいが無いものとされねばならない。「狼に育てられた娘」のもたらしたスキャンダルを思い出してよいかも知れない)。しかし、であるが故に(思惟の中にしか存在しないことの、その積極的な存在理由を考えてみるために)、一度はロビンソン・クルーソーのこの無人島のことを考えてみる必要があるようにも思う。そういうものを考えてもいいと思う。

ホメロス『オデュッセイア』

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

 ちょっと前に買って本棚に積んだままの『啓蒙の弁証法』だとか『ミメーシス』をパラパラめくっていたら、どっちの本にも『オデュッセイア』について触れている文章があった。ということで、いいきっかけだし取りあえず『オデュッセイア』を読んでみることにした(ついでに『啓蒙の弁証法』所収のオデュッセイア論「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」も併せて読んでみた)。

 物語の大枠としてこの叙事詩はどっからどう見てもモロに貴種流離譚なわけで、本当のところそれ以上に他に言うべきことは何も見つからないんだけれど、もうちょっと視点を絞ってみると、オデュッセウスという英雄である一人物を巡る負債とその弁済の一部始終を描いた、ある種の交換の図式を形づくる物語という像が浮き上がってくるように思う(……という点は、実はすでにホルクハイマー/アドルノも指摘している)。
 オデュッセウスのその後十年に及ぶ苦難に満ちた漂泊の旅は、大地の神ポセイドンの眷属ポリュペーモス(一つ眼の巨人)に打撃を与えた結果、その報いとして逃れがたく決定づけられている。オデュッセウスは返済(贖罪)義務を負う者として故郷イタケーへの帰郷を望みつつ地中海の島々を流浪し、果ては冥界にまで船を漕ぎ続けねばならない境涯に(さながら自転車操業に喘ぐ経営者みたいに)陥ることになるわけだけれど、しかし他方で彼は、イタケーの邸において彼の帰還を待ち続ける妻ペネロペイアーを囲む無法な求婚者たちの前には、その暴令な振る舞いの数々に死をもって贖いをつけさせる暴虐な復讐者(債権者)として姿を現わすことになる。大筋として見れば、オデュッセウスの帰郷の物語はイタケーという最終的な決済の場へと向かって幾重にもあざなわれた経済的諸連関の束を形づくりながら進行していく、価値交換の連鎖のとどまるところを知らない流れのように読まれることになる(魔女カリュプソーの棲むアイアイエーという島に最大七年の足止めを食らったくだりはその意味で、オデュッセウスの冒険において数々彼を襲った危難の中でもとりわけもっとも危うい難局を示していたように思う。オデュッセウスの漂泊においては彼の死すらがポセイドンに対する負債のなにがしかの返済を約束するものだったとするならば、そこにおいてもっとも避けねばならない事態とは、以上の意味での交換過程の流れの停止、現状以上にも以下にも動くことのなくなった流れの停滞にこそあるだろう)。
 しかしまた、物語の大枠としてはこの叙事詩をそのようなものとして把握してもいいかもしれないけど、そこで起こる数々のできごとを個別に、もっと詳細に見ていくと、はなしは決してそんな単純なものじゃない。(できごとの中でもっとも見やすく交換の形態を形づくっているよう思われる)ロートパゴイ(蓮食い族)の集落の蓮の花だとか陽の神の所有する家畜だとかのオデュッセウス一行に対する関係は、単純に贈与とか収奪が形成する等価報償の関係に還元することはできないだろう。あるいは見方をずらして、オデュッセウスの冒険を通じて彼を援助する女神アテネこそが、オデュッセウステレマコスの親子の道程において、彼女への貢ぎ物の対価としての寵愛を終始変わらず授けているという見方も可能かも知れない(さすがにこれは牽強付会が過ぎる気もする。だいいち、視点の取り方が大雑把すぎて、何も言っていない等しい)。
 ともあれ、イタケーからトロイアへと出征し、戦争で勝利をおさめながらもさまざまな試練と紆余曲折を経て、ようやく故郷に帰還することの叶ったオデュッセイアの交換的踏破の円環は、つまるところ、収支プラマイ0の場所に落着することになる。言ってしまえばこれは(素朴にワクワク楽しみながら読む限りでは)貴種が乞食さながらにまで身をやつしながら、再び土地の首領の地位をめでたく取り戻すというだけのお話で、オデュッセウスの交換経済には資本主義的な過剰(自己増殖する資本に相当する契機だとか真の恐慌の可能性みたいなもの)は、当然ない(紀元前の叙事詩にそんなものを見ようとするほうがどうかしてる)。

 
 ところでホルクハイマー/アドルノオデュッセイア論における読解の優れているところは、このオデュッセウスの物語の中の交換関係の図式に、まったく別の次元の交換を見いだしてそのモメントの逐一を丹念にすくいあげてみせてくるところにある。彼らがそこで取り上げるのは「犠牲」という、やはり交換を核心に据えた概念だけれど、ここで取り沙汰される犠牲の問題はもはやそれじたいとしては(一義的には)オデュッセウスと他者とのあいだの直接的な交換を形づくるものではない。端的にそこでオデュッセウスは、外的な自然に対する犠牲の儀礼を(理念的には)いっさい停止し、あらゆる野蛮な犠牲を自己の内面へと集約し解消し(否定神学的に内面化し)、その結果掴み取られることになる「諦念」の位相において近代的市民の原像を弁証法的に形成するという、特権的な形象として描かれることになる(自己をみずから危機に曝した者だけが自己を神話的蒙昧から立ち上げることができる。ってことらしい)。すなわちホルクハイマー/アドルノはここで明確に、神話的な互酬関係(供犠と神々の返報、罪科と贖罪、みたいな交換関係)の循環を解体しつつ保存する(「啓蒙の弁証法」)、近代的主体の契機の古代における萌芽をそこに見いだすことになる。まあ普通に物語として『オデュッセイア』を読んでいてもなかなか出てこない着眼だと思う(ソノ発想ハナカッタワ)。

もし、交換が犠牲の世俗化であるとするならば、犠牲自体はすでに合理的交換の呪術的図式であったと思われる。つまり、それは神々を支配するための人間の企てであって、神々は、まさに神々に対して捧げられる崇拝のシステムによって、その座から追い落とされるのである。(112頁)

 ホルクハイマー/アドルノの全般的な主張が妥当なものなのかどうか、問題が馬鹿でかすぎて判断する能力はないけど、『オデュッセイア』という「物語」のアレゴリカルな解釈としてそれを「小説」の読みとは別個に括弧に入れて読むかぎりで、これはとても面白く、またよく出来た読解だと思う。

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)